去年の1月に初めてキューバに行った時にお世話になったYと呑み。
1年半ぶりに会う彼女は相変わらず聡明でしびれました。
今度の旅行のあれこれを聞いてもらい、楽しみだなーわーいって言ってるだけであっという間に時間が過ぎてしまいました。
おかげさまで余計楽しみになってきた。ありがとぅー。
天気予報によると、晴れ時々曇り。気温30~19度。
モーニングコール7:30。センキュー。
9:00出発。まずは革命広場。どーんと馬に乗った人の像があります。
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ここでキューバの歴史を一回整理。
- 1492 コロンブスの上陸&殺戮(ジェノヴァ出身。今でいうならイタリア人。でもこの船旅はスペイン王室がスポンサー)。
- 1511 スペインから派遣されたディエゴ・ヴェラスケスがキューバの総督に就任。当然現地人は反発、アトゥエイ(Hatuey)に率いられた抵抗運動が勃発するも敗北。これ以降原住民はほぼ絶滅させられることになる。代わりにアフリカから奴隷を連れてくる。
(300年以上経過・・・奴隷制が継続する中、支配者側のスペイン系住民(キューバ生まれキューバ育ち)の中からも、スペイン本国の統治に対する不満が出てくる)
- 1868 砂糖工場主のカルロス・マヌエル・セスペデスを中心にした反乱勃発。これが第一次独立戦争と呼ばれることとなる。他にムラート(混血)のアントニオ・マセオ、ドミニカ人のマクシモ・ゴメス等が活躍する。カルロス・マヌエル・セスペデスは1874年に戦死。戦争は1878年に終結。戦いには敗れど、1886年の奴隷制廃止を勝ち取る大きな布石になった(はず)。
この頃、ホセ・マルティは何をしていたかというと、1868年に反乱が勃発したのち、詩作や出版関係で熱く独立を語るも、あっさり反逆罪で1869年に逮捕、投獄。1871年スペインに送られる(まあ所払いみたいなものか)。でも監獄にいたわけではなくってちゃんと大学に通って、法律、文学、哲学などの研究に没頭する。そして1874年メキシコ、1876年グアテマラに居を移し、ようやく1878年(戦争終結時)にキューバ帰国。でもすぐ当局との関係がやばくなって、スペイン、米国、ベネズエラへと移動。1881年に改めて米国、ニューヨークに10年以上落ち着き、創作活動や言論を続ける。
だから現政権の世代に大きく影響を与えたホセ・マルティの一番の活躍の場って、キューバではないんですよね。おそらくきっと多分、ニューヨーク時代の言動や作品が主だったものなのではないかと。
でまあ、そんなホセ・マルティがとうとう自ら行動に出ます。
- 1895 ホセ・マルティ、ドミニカ共和国へ出向き、マクシモ・ゴメスと会う。そして共にキューバ上陸。ここから第二次独立戦争が始まる。
しかし同年、ホセ・マルティ、そしてアントニオ・マセオ戦死。思想的支柱と、第一次独立戦争の二大英雄の一人を失うこととなる(もう一人はもちろんゴメス)。 - 1898 金の匂いを感じ取った米国が乱入してきて、キューバ国の独立の為、民主主義国歌樹立の為に大活躍し始める。
結果、スペインが負け、キューバは「独立」することとなるが、実権はしっかり米国が握り、以来米国傀儡政権が続くこととなる。 - 1953 真の独立、真の民主主義国家樹立を目指し、フィデル・カストロ率いる反乱軍がサンチアゴ・デ・クーバで狼煙を上げる。
- 1959 バチスタ米国傀儡政権失脚(亡命)。革命政府樹立。
・・・でまあ、このあとも(このあとこそ)色々あるんでしょうけど、とりあえずここまで。
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というわけで、どーんと馬に乗った人は、第一次(1868-1878)、第二次(1895-1898)の二回に渡る独立戦争(vsスペイン)の英雄、アントニオ・マセオ(Antonio Maceo)でした。
いちおう革命広場らしいんですけど、主役は独立戦争の方でした。ザックザック刺さってるオブジェは、山刀。当時はこれで戦いました。詳細忘れちゃったけど、なんらかの折りに、調停(休戦)するか戦い継続か、みたいになって、休戦派が水平、戦い継続派が垂直に山刀を立てて投票したんだとか。実際はけっこう斜め(委員長一任みたいな)が多かったみたいで、で、オチを忘れちゃった。まあ戦ったってことでしょうね。
しかし功績というか、ざーっと調べてみたかぎりでは、あれ?マクシモ・ゴメスの方が・・・みたいな印象も受けたんだけど、まあそこは色々あるんでしょうね。
ハバナの革命広場でのチェやカミーロと同じように、ここサンチアゴ・デ・クーバの革命広場にも建物に大きく革命の英雄の顔が描かれています。その名もフアン・アルメイダ・ボスケ(Juan Almeida Bosque)!まったく存じ上げませんでしたが、こちら、フィデル達と同期の方で、2009年に亡くなったとのこと。だからしっかり現政権の中枢にいた人です。
えーこういう人がこういう扱いを受けるんだなーってちょっと意外でした。チェもカミーロも、なんだかんだ「昔の人」だもんね。でも2009年ってついこないだだよ。ソ連崩壊も9.11も全部過ぎてるんだよ。意外ー。意外ー。
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そのあとモンカダ兵舎(兵営とも。Cuartel Moncada)に行きました。ようやくここに来ました。待ちに待った!って感じですけど、サンチアゴ・デ・クーバにあるっていうのもよく分かっていませんでした。まあそんなもんです。
というわけで1953年7月26日、すぐ近くの病院と裁判所を囮襲撃し、兵力の分散を図るも、結局この襲撃(&武器調達)計画は失敗に終わり、フィデルも逃亡・潜伏後の7月31日に逮捕されてしまいます。
まあ経験不足準備不足ってことなのでしょうが、すごいのはこのあと。フィデルを拘束した軍の小隊長が、上からの命令(軍へ連行)に背いてフィデルを裁判所に連れて行っちゃった!だから裁判を受けさせることになっちゃった!フィデルもこのチャンスを無駄にしなかった!自分の弁護を自分でやり(当時の職業は弁護士)、裁判所で延々と演説しちゃった!当然マスコミも傍聴している。もともと人気の高かったフィデル、もっと人気が出ちゃった!もちろん有罪にはなるけれど、バチスタ政権もそう簡単に獄死させるわけにもいかなくなり、数年で恩赦で釈放するに至った。まあこの判断が自らのクビを締めることにことになっちゃうんだけど。
なんにせよ、無謀極まりない、カストロ兄弟を含む130名程度の若造たち(60名以上がこの戦いで亡くなったとのこと)が、結果、歴史を変えちゃったってわけです。今でも7月26日というのはキューバにおいてとても大切な日とされているみたいっすよ。祝日ではないみたいだけど、革命記念日と銘打ってるくらい。まあ革命政府だからなんでしょうけど。
念の為補足しとくと、この時フィデル26歳ですって。
モンカダ兵舎、今は博物館(ここを見学)と小学校になっています。銃撃の跡が生々しい建物の前に広がるグラウンドでは、子供たちがサッカーやってます。いい光景です。博物館の中身もとても充実、写真も豊富です。が、やっぱこれ言葉が分からないとキツイわねー。ライネルがたっぷりたっぷり時間を割いて説明してくれたからよかったけど、個人旅行じゃなかなか難しいなぁ。
11:00、出発。
11:55、サンタ・イフィヘニア墓地(Cementerio Santa Ifigenia)到着。
あのバカルディ社の創設者、ドン・ファクンド・バカルディ・マッソ、の息子、エミリオ・バカルディの墓がありました。非常に疎く、だからすごいのかだからそうでもないのか、よくわかりませんでした。
それからなんとアントニオ・マセオの!お母さんと奥さんの墓がありました。ご本人がどこに埋葬されているのかはよくわかりませんでした。
そして!これは本物。ホセ・マルティの墓があります。もう完璧。超がつくほど特別扱いでした。衛兵がずっと(何時からな時までなのかは聞き忘れました)付いています。たしか30分毎?に交代の儀式があります。僕らも衛兵の花道沿いに並んで写真を撮りました。立派な観光名所です。だからホセ・マルティの墓の回りにはいつも人がいっぱいです。
そして!ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのコンパイ・セグンド先輩の墓もありました。どうしてここに埋葬されているのかというと、音楽家としてのキャリアを始めた地が、サンチアゴ・デ・クーバだったとのことです。96歳でなくなったようです。96本の薔薇のデザインです。
あと、唯一日本人でこの墓地に埋葬されている人がいます。この方は・・・名前のメモをなくしたので調べられませんでした。
12:00出発ってメモに書いてあるけど、圧倒的におかしいっすね。これで全ての時間メモの信憑性がなくなりました。
ともかく、そのあとモロ要塞の近くのレストラン、エル・モロ(El Morro)でお昼ごはん。この時初めて、いわゆる自己紹介タイムというのがありました。みなさんちゃんとメモを取ってらっしゃる。僕はきゃっきゃっと写真を撮ってたので結局この時は誰一人覚えませんでした!ダイジョブダイジョブ。
このレストラン、実はポール・マッカートニーさんがご来店したとのことで、しかも、全キューバにおいて、サンチアゴ・デ・クーバだけに来た、ちょっとだけ立ち寄った的な、スーパーレアなご来店だったとのことで、ポル男が座ったとされる椅子がテラスの一番端に(でもひっそりと)鎮座しておられます。
もちろんみんな(興味のある数名)で交代で写真を撮ってみたりしたのですが、いかんせん椅子なものですから、座ってしまうと途端にただ素敵な景色を見ている図、になってしまいます。かといって椅子の横に立ってみても、背もたれに「ポール。」って書いてあるだけ(見辛いし)の椅子なので、結局どうってことない絵になってしまいます。フロリディータのヘミングウェイのように銅像でもあればラクなのですが、毎日いりびたって呑んだくれていたわけでもなく、なんとなく気紛れで立ち寄っただけのポル男ですから、しょうがないっていえばしょうがないのです。
さてそこで気になるのがご来店時期なのですが、これはもうあの時期しかないわけで、カリブ海のジョージ・マーティンのスタジオにポールがいた時期なわけで、つまり『Tug of War』ないし『Pipes of Peace』のレコーディング・セッションの時期、だから1980年から1981年くらいなわけ。この時にポル男がキューバに立ち寄っていた。しかもお忍びで!もうトリヴィアすぎて鳥肌が立つぜ。よくよく見てみれば木製だけど、パイプス・オブ・ピースの椅子に似てなくもない。もしかして着想を・・・きゃーすごすぎるぜ!はっきりさせたい!1980年なのか?それとも1981年なのか?
ライネルに、お店のスタッフに聞いてみてもらった。
その答えは!!???
「ん~、2000年。」
最近じゃん。ぺっ。
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気を取り直し、モロ要塞見学。モロってのは地形のことみたい。いや地形っていうか石?岩?丘?の形状のことみたい。丸くて平でぽやーんってした感じの土地(石?岩?丘?)の形状のことみたい。で、そういうところに建てましたってことでモロ要塞なんですって。もしかしたら突き出た感じの地形なのかもしれない、と説明の途中で感じたのですがそのまま分かったつもりになってスルーしちゃいました。ちなみにハバナにあるモロ要塞も同じですって。説明しているようでまったく説明になっていないことが書きながらはっきりしてきました。
名前はともかく、中はけっこうすごいです。世界遺産です。カリブ海の眺めはもちろんだし、縦にひたすら長かった!階段階段階段、で迷路みたい。夏休みの自由研究で見取り図を作りたくなるくらい楽しいです。「要塞」ってけっこう軽く見てたのですが、立派な城です。
なんて魅力的な建築物!ってことを知ったのは、実は自由時間になってから。入口自体がかなり上の階で、そのままみんなで最上階というか屋上(とは言わないだろうけど)まで行ってキャーキャー写真を撮り、15分程度フリータイムになったのだが、実は僕と母は食事をしている時からチラチラ外を眺めながらミッション完遂場所を探していた。
そうです。父の散骨です。念の為いっとくと、その為の旅行なのです。
どうせならカリブ海がいい、という母の希望。まあそれならこのあと行くトリニダーでもいいのかな。でもどうせなら革命所縁の地がいい。となるとトリニダーはそういう香りがしないわけで、あと思いつくのはグランマ号が上陸したところとかだけどまあそこには行かないみたいだから、そうなるとやっぱりここ、サンチアゴ・デ・クーバがもっともそれっぽい。しかも今目の前がカリブ海だし!要塞自体は革命とは関係ないけれど、天気もめちゃめちゃいいし、この時この場所このロケーションは実は滅多にないチャンスかもしれないのだ。
レストラン(絶壁の上)のテラスからカリブ海を見て、「ここがいいわ~」とは言うものの、実際の海までは数十メートルはありそうで、投げても風に押しやられて岩に直撃するのが目に見えている。
それは要塞でも同じことで、城壁にガーン!こなごな~って絵が容易に浮かぶ。
だからてっぺんで写真を撮っている時も、四方八方の下を覗き込んで、海との距離が一番近いところを探していた。そして、ようやく見つかった近距離ポイント。当然投げやすさから言っても下の方が海に近いわけだし、もうあそこ以上の場所はない、というところが見つかり、いつ抜けようか、ちょっとヨッシーに頼んで時間もらおうか、と考え始めた時に正にそのタイミング、ドンピシャで自由時間となったのだ。もう天才かと思ったよヨッシーもライネルも。
「解散!」となったその瞬間、母を呼び、「あそこしかない!」と場所を伝え、行こう!と駆け足。
多分200段、いやもっとか、それくらい、ひたすらひたすら階段を下りる。部屋を抜けて、扉を開けてまた階段を下りて、ところどころにいる係員のあんちゃんの怪訝そうな視線をかいくぐり(このへんまではあまり人が来ないっぽい)、ようやく最下層の部屋到着!もう海も10mほど下、目の前に広がっている。
そのあと母もやって来て(体力ある人でよかった)、息を整え、カメラの準備をし、いざスタート。
「それではオトーサン、サヨーナラー。」・・・ぽちゃんっ。
これで完了。全て見事に完了。
ほっとしたのも束の間、もう集合時間が迫っている!これから登りだ!「先に行ってヨッシーに声かけとく!」と駆け上る。そしたら何故か途中でオフクロ(通称。母とは別人)がぜーぜー言いながら階段を下りてくる。
「何してんの?」
「え?出口こっちじゃないのぉ?逆?登りぃ?うわ~間違えたぁ~!」
もうどうでもいいです。ゆっくり二人で上がって来てください。
というわけで無事にヨッシーに怒られることもなく、なんとなく集合時間軽く遅刻程度ですみました。すみません。
まったく革命と関係がないモロ要塞ですが、お土産は革命ものが多いです。チェグッズは相変わらず豊富。フィデル絵葉書もなかなか充実していたので0.75CUCを10枚も買い込みました。フィデル写真集っていう逸品もありましたが、重そうなのでやめました。
14:40頃バス出発し、そのあと町を歩いて散策。配給所とかホコテンとかを観て回りました。
ここ、ホテルのすぐ近くだったんですね。15:50に再びバスに乗り、ホテルに16:00前に着いていました。
さて。
すっかり今日の予定を勘違いしていて、とっくにその時間には夕食が終わり、もしくはホテルの夕食の最中のつもりだったのだが、実はホテルで一服したあと、18:15にみんなでおでかけして近くのレストランでお食事、という流れだった。
昨晩のエリックと、ちゃっかり18:00に待ち合わせという約束をしてしまっていたので、(ラッキーなことに15分ずれていてくれたので)これはお断りせねば、と17:50頃にホテルの外に出て一服していた。
早く来ねえかな~っとプラプラしていると、二人組の屈強な黒人二人組と遭遇した。「おっす」「おっす」と挨拶し、日本人か?とかお決まりのそういう会話。そしたらやっぱりお決まりの「タバコ、葉巻、マリワナ」。いやいいっていいって。吸ったことないのか試すか?いや大丈夫だからいいって。イヤなこと忘れられるぜ。わかったからいいって。旅の疲れも吹っ飛ぶぜ。いやいいって。金もねえんだよ。いやいや安いんだってこれが。たったの40CUCで最高級の逸品だから。そりゃ素晴らしい。だけどいいって。
という会話が延々と続く。進行方向が同じでなんとなく続いてしまった。そして何より、昨晩のエリックとの(気持ちのいいと思わせる)会話の記憶が残っていて、(今にして思うと)ものすごく油断があったのだと思う。終始ヘラヘラしてしまっていて、きっぱり断るという行為に至らなかったのは事実だ。
「時間ないんだよね。モノは今ないんでしょ?」と言ってはい終わり、さあ引き返そうとしたら、「あるあるある!すぐそこだから!」とそばに停めてあるクルマに乗り込もうとする。3人組だったようで、運転席(から降りて売店で飲み物を買っている最中)の男に「早くしろ!」と怒鳴っている。「さあ早く!」と言われ、「あームリムリムリ。そもそも金もないから!これが全財産なんだから!」と愚かにもポケットに突っこんであったお札を取り出し、掲げてしまった。
記憶をたどると、それは20CUCと10CUC。もしかしたら20CUCが2枚。
そこからは本当にあっという間。「充分だよ」と一言。
パッと右手のお札が消えて、彼の手に収まる。ガチャっ。「行け行け行けー」ブルル~!「5分で戻るから!」
居なくなっちゃった。
このやり取りの後半で僕を見つけたエリックがそばまでやって来ていて、「おまえ、何やってんの?」と一言。
「ねえ、あれ、戻ってくると思う?」
「来るわけねーだろバッキャロー!」エリック、大激怒していた。
エリックに言われるまでまったく気付かなかったけど、あれは単なるタクシーで、運転手はまったくの部外者だった。
「そういうものが欲しいならどうしてオレに頼まなかったんだ!キューバには悪いヤツはいっぱいいるんだぞ!」と壁を叩きながら、涙をぬぐっている(ように見える)エリック。
金を取られたショックより(というよりあまり実感がなかった。完全にバカだと思う。まさにポカーンって感じ)、目の前でそういう行為が行われているのを目撃してしまったエリックが猛烈に憤る様を今ここで見ている、この光景こそがショックだった。
なぜそこまで感情を高ぶらせる?
アミーゴがあまりに無防備でそれを守ることができなかったから?
アミーゴが昨日食いついてこなかったくせにちゃっかり別のヤツのイリーガル品に手を出そうとしていたから?
本来なら自分がカモにできるはずだったのにこれによってカモの警戒心が高まってしまったから?
混乱。「あーやられたーバカだオレー」という感情処理で終わりにできない。そもそもそこに達することができない。どうしちゃおうか今ここにある危機、みたいな。ていうかそうじゃない。そもそも今ここにいるのは今日は一緒に行けないぜって話を彼にする為なんだよね。あ、もうこんな時間だ。どうしよう、みたいな。
相変わらず二人でグシャグシャな会話。感情爆発させているので余計グシャグシャ。
「なんでなんだよ!なんでなんだよ!」「ちょっと待って。それはいいから。」「よくない!」「いやそれはそうだけど、ちょっとまって」「だってオレは・・・!」「うるさい!しゃべらせろ!」
というわけで僕は間もなく出かけなくてはならないこと。したがって約束を果たすことができないこと。帰りは見込みで20時半と聞いていること。その上でどうするかは君の判断に委ねること。・・・をなんとか伝える。
「オッケー。20時半に会おうよ。オレまた来るよ。友達に連絡しとく」
わーおマジか。そういうことだったらこっちも覚悟決めるわ。もうこうなったら行くとこまで行け、だ。
そして(やっぱりタクシーは戻ってきてくれなかったので笑)本当にお金がない僕はホテルの両替所でいくばくかのCUCを手にしてからニコニコと(心は混沌)バスに乗り込み、レストランへお食事に。El Palenquitoというお店。
この日も隣の席は母だけど、それぞれ反対側のお隣さん達と話をしていた。大変いいことです。この旅行での親離れ子離れの瞬間だったかも。
僕はオフクロと秋田夫妻からツアーの海外旅行のあれこれを勉強させてもらった。色々あるんですねー。みなさん経験豊富すぎてびびりますわ。食事自体は大変待ち時間が長く、かつボリュームありすぎでちょっとゲンナリ。半分残しました。
流しは男女二人組。ギターと唄(+パーカッション)のみ。感想なし、のレベル。
バスがホテルに到着したのは21時ちょい前くらいだったか。
暗闇に、いた!エリック!
さすがにそのまま合流ってのは(こちらもグループですので)躊躇があり、一番最初に降りてすれ違いざまに「5分」と伝え、とりあえず部屋に戻って軽く荷物整理してから合流!
「連絡はついた。さあ行こう!」とエリック。
覚悟を決めた、とは言っても、調子に乗っていた反省はおおいにあり、ちょっと遠いからタクシーに乗ろうという誘いはきっぱりお断りする。
びっくりするエリックに、1時間だったら歩く、それ以上だったらそこの呑み屋で呑んで帰る!と伝える。
歩き出してしばらくすると、やっぱり大変だよ、と通りでたむろしている知り合いらしきバイカーに声をかけ(こっちは本当にバイク乗りが多い!)、「トット、バイク借りたからこれで行こう」と言い出す。「はぁ?」と切れかけた時に、「でもちょっと待って。メットが1つしかないから探してくる」と。まったくふざけてる、歩くと言っているのに!と思いつつ、キューバでバイク2ケツってのもなかなか出来ない経験だな~とまた油断が始まり、エリックがバイカー達に声をかけまくるのを一応困った顔をしながら眺めて待つ。が、結局ダメだったみたいで、二人歩く。なんだよ、ちっ。
大通りから曲がって数ブロック過ぎる。レストランのあった通り(ホテルからみて反対側)とはなんとなく家の造りが違う、気がする。道自体、穴が開いていたり何かが倒れていたり、障害物が増えている。
昨日の晩の同じ時間帯に一人で散歩していたのはレストラン側を歩いていたので、その違いがけっこうショックだった。決して向こうが高級住宅地ってわけではないはずだけど、こっちはなんというか、香ばしい。
ああ、そういう通りなのか、と。人は多い。子供も多い。犬も多い。けっして危険とかなんとかじゃなくて、何とも言えない、写真を撮りたいくらいの香しさがあるのだけど、少なくともこの時間帯にカメラを向けるのは絶対やめとけ、と脳内センサーが反応する(くらいの判断力はあった)。まあ暗くて写んないよ、という判断もあったんですけど。
なんにせよ、あーもう確実に変な方向に向かってるわー。
30分くらい歩いただろうか。
「ちょっとここで2分待ってて」と通りの角で言われる。いやぁこの2分(実際は多分5分くらい)がけっこう長い。通行人、みんなジロジロ見てくし。犬まで見てくし。
挙動不審のエリックが戻ってくる。そして、ちょっと人気のない一角に僕を呼び、「トト、これどう思う?」と。
「20CUCでいいってさ」と、Tシャツの腹にかくしていたアルミホイルの包みを出してきた・・・。
まったく予想をしてなかったといえば嘘になるけど、僕らのコミュニケーションがズタボロだったのは重々承知していたけど、いやー疲れたわ笑。
「ノーグラシアス。返してきて。」
えーーーーっ!ちょっと待てオイだってこれ上物だぜオレを信用しろ絶対ダイジョブだから
「いらない。ヘルシーギフト、フォルファヴォール。」
だからTシャツのヤツは今日都合悪いっていうからでもトトすごい疲れてるからこれで全部ラクになるから
「一回もこれが欲しいとは言ってない。Tシャツの話は聞いてない。」
いやムリムリだってこれアイツが留守だったからアイツのガールフレンドの家に行ってアイツラの分を分けてもらって
「何言ってるのかよくわからない。いらない。返してきて。」
えーーーーっ
多分こんな話をしていたんだと思う。すっごく時間かけてるし、けっこう二人とも怒り口調になってきて、最後の方は僕もめんどくさくなってきて、はっきり「(商品名)は吸いたくない!返してこい!」と彼が来た方向を大きく指差した。
そしたらキャー。その指差した方向、20m先に男性が立ってたわキャー。ずっとこっちの様子をうかがっていたみたいだわキャー。彼が「アイツ」だったわキャー。
帰り道。
また30分くらい歩くことになったんだけど、その間に二人であれこれ話をして、なんとなく(上記の会話のニュアンスも含めて)分かってきた。
オマエがそういうものを欲しくないと言っていたことは分かっている。今日はTシャツとかのギフト屋(モグリなので当然幅広い品ぞろえ)に行って、そこで軽くパーティーをしたかった。でもソイツの都合が悪い(連絡がつかない)ので、別のヤツのところでパーティーにしようと思ったらソイツはガールフレンドの家に行っていて(それが上記の「アイツ」)、それは無理なので、で、オマエは今日はすごく疲れているからせめてホテルの部屋で(商品名)を吸入すれば全部忘れてラクになれるしと思って、オレは悪いヤツじゃないからそれが絶対オマエの為になることだから・・・。
と延々と(ほぼ30分かけてます)説明を聞く。
本心がどうだったのか、Tシャツのくだりはどこまで本当なのか、疑う要素はいくらでもあるけれど、結果、エリックは僕の乗車拒否を受け入れ共に歩き、恐らく売人から代金後払いで商品だけを受け取るという信用あってこその行為を、返品するという掟破りを犯してしまい、その界隈での彼のメンツをそれなりに潰し、今、収穫なしの状態で僕をホテル(デカいので見える。余裕で帰れる)まで送っている。
ホテルの手前の信号のところで、「疲れただろアミーゴ。ありがとう」と声をかけてくるエリック。どうやらこのまま帰ろうとしているらしい。昨日の店で一杯だけ呑もうよ、と誘うと「ホントか?オールライトか?」とようやく(30分ぶりの)笑顔。
店に着き、エリックに金を渡しビールを所望してもらう。するとビール一つとお釣りが返ってくる。何頼んだの?と聞くと、「いやオレはいいんだ」と肩に手をかけてくる。なんなんだいったい。昨日みたいにタカってこいってんだ。ほら、ワイン買って来て、と再度お金を渡すとまたしても「ホントか?オールライトか?」と。
多分この人、裏社会にもそれなりに通じているようだし(そのこと自体が即何かを意味することにはならないけれど)、純粋潔白なただの大学生ってわけでもないだろう。無理やり分けるならそりゃ悪党、いや小悪党くらいは言ってもいいのかもしれない。ニッポンで何も考えずに暮らして海外旅行もしちゃって、なんていう僕からすると充分可能なジャンル分けだ。
でも多分この人、まだ学生ということもあるだろうけど、プロパーな小悪党になりきれない小悪党なんだなーて思った。
結局僕はビール一杯で終わりにしたんだけど、昨日と同じように彼の友達が別のテーブルにいるにもかかわらず、どうしてもホテルまで送ると言い張る。
じゃあお言葉に甘えて、と一緒に店を出て話し出す。ここで初めてエリックがはっきりと「アイムソーリー」と言ってきた。
「昨日も今日も、あの店でバンド演奏がなかった。ホントゴメンな。」
うわーっそこかーっ。
ホテル前でハグしてさようなら。
「今度来る時は、アイフォンをプレゼントしてくれよ」
「んー。考えとく」
長い長い一日でしたとさ。
1時45分ホテル出発、2時10分空港到着。
電灯もちゃんと点いていません。チェックインカウンターも空っぽ。ホントにこれで大丈夫なんですか?と思うけど、昨日の振り替え便の乗客でフロアは人でいっぱい。皆、静かに静かにアナウンスを待っている。10分ほど経っていただろうか。ふと気付くとヨッシーとライネル、しっかり我々のスーツケースを運んで、チェックインの列の先頭を陣取っている!エラスギ!おかげで、3時にアナウンスが入ってほとんど待つことなく、我々はチェックインを済ませることが出来たのです。流石です。天才です。
しかも全員まとめてやってくれたので、彼ら(黒子を含めた3人)があれこれしているのをただボケーッと鼻ほじりながら見ているだけで全て完了。どれだけ贅沢な旅なんだ。
ゲートに入る際のセキュリティーチェックで、ライターがひっかかって取り上げられちゃった。
羽田では、スーツケースの中には1つも入れてはいけない、手荷物に1つならいい、と言われ、僕が1つと、母に1つを持ってもらって来たんだけど、今度は手荷物で一つも持ってはいけないという扱いだった。母の分も受け取っていたので計2つ、と思ったらバッグの中には3つ入ってた。なんなの羽田!まあここハバナでも「5つあるはずだ!」とか言われて一緒になって必死に探したけどやっぱ3つだし。けっこう係員の感覚でまちまちなんだね。
で、そもそもの規定としては、ライター1つならいい、という羽田のルールはまったく意味がない。1つ目はタバコ用、2つ目は放火用、なんて使い分けしないしね。たかだかライターで何ができるねんってのが大前提だけどさ。
というわけでライターなしでこれからの行程をどう切り抜ければいいんだろうかとものすごく不安になりながら飛行機に乗りました。買えばいいんだねきっと。
ヒコーキは予定通り5:00発。と表示はされているけど4:50過ぎてもまだ乗れないんだよね。昨日の二の舞かぁ、と不安にさせたところで搭乗タイム。演出が上手い。そしてそのあとは超スムーズに8時にバラコア着!おめでとう!
グスタボ・リソ・デ・バラコア空港。Aeropuerto Gustavo Rizo de Baracoa、です。
飛行機を降りてテクテク50m弱歩いてターミナル(っていうの?空港の建物)。ターミナルの奥行は5mくらい。そこに乗客がひしめき合う。何をしているのかというと、スーツケース待ち。空港スタッフが7~8人で飛行機から降ろして「おい入口空けてくれ!そこに立たないで!」とスペイン語で怒鳴りながらスーツケースを運び入れる。それを「あ、それアタシの!」とか言いながら受け取り、5m奥の出口でスーツケースと控え券の番号を照合してもらって出ていく。素敵です。無駄がない。
ちなみにトイレは流石のレベルっす。もちろん流すなんて無駄なことはしません。合理的です。
空港を出てすぐ、ヨッシーが駆け寄ってきて、「はいこれ。」と100円ライターを一つくれた。いざという時の為にスーツケースに入れておいたものだそうだ。
もうはっきり言って泣きそうになったね俺様は。嬉しすぎてすぐ隊列を離れて吸いに行っちゃったよ。このライターは一生の宝物にします。
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ここからのバスの運転手はクサ。サンチアゴ・デ・クーバ在住の41歳?だったかな?本当はもっとロングネームらしいけどヨッシーが覚えられないので端折ってクサになったらしい。
空港を出るとすぐ、当初泊まるはずだったホテル(Hotel Porto Santo)。なかなか洒落た建物でしたよ。残念。
大型バスで狭い街中を自由自在に走る。めっちゃ運転上手いわ。そういえば町の人達がよく手を振ってくれるから、ここは親日家の町かと思ってたらそういうわけではなくって、クサがバラコア出身なんだって。だからちょっとした凱旋状態。この近所で生まれ育ったのかなぁ。なんかすごくいい光景だったよ。
(ここからWikiとかを駆使)
バスを降り観光。まずはマタチン要塞(Fuerte Matatín, 1802年)跡地のマタチン(歴史・自然史)博物館(Múseo Matatín)。ちなみにバラコアには3つの要塞があって、ラ・プンタ要塞(Fuerte La Punta, 1803年)はレストラン、エル・カスティージョ要塞(El Castillo, 1803年)はホテルになっている(どっちも行ってないけどね)。
要塞ってのは海賊対策で作られているので、ここはもちろん海のすぐそば。ってことは1492年にコロンブスが上陸ってのもこのへんなんじゃないかしら足跡とか残ってるんじゃないかしら、とかちょっとロマンを感じましたね(うそ)。
コロンブスはアジアとかジパングとかを探しているつもりだったらしくて、まさかアメリカ大陸(の間の島)にぶつかっちゃったとは夢にも思わなかっただろう。落ち着いて考えてみりゃただの侵略者だけど、まあ今となっては立派な観光ネタになっているのも確かだ。
もちろんもともと人は住んでいた(タイノ族)けれど、1511年にディエゴ・ヴェラスケスが初代キューバ総督になり、ここから一応キューバの(記された)歴史がスタートになる。
その、キューバの歴史のスタート地点がここバラコアってことらしい。だから最初の町だし最初の首都。
当然これはただの侵略行為であって、スペインに対してタイノ族の反乱が勃発、その時のタイノ族を率いていたのがアトゥエイ(Hatuey 名字はないのかな多分)。結果はご承知の通りヴェラスケス軍の勝利で、キューバはスペインの領土となり、アトゥエイは1512年に火刑でこの世を去る。
このアトゥエイはバラコアでは英雄とされていて、ちゃんと町にはアトゥエイ像もある。言ってみればキューバ史上最初の反逆者ってわけだ。
メモに「ハチミツと呼ば△×$#(解読不能)」と書かれていてなんのこっちゃ、と思ってたら、マタチン要塞の目の前の湾(って形状だったかなぁ)をハチミツ湾(Bahía de Miel)と呼んでいます、ってことだったみたい。由来は謎のまま。
さて海をしばらく眺めてから町散策。手元のメモには人口3万人って書いてあるけど、ウィキによると8万人を超えていました。なあんだけっこういるじゃん。ちなみに数年前のデータだと思うけど、東京都は1,350万、東京都北区は33万、東京都北区浮間は2.5万人。浮間よりは遥かにデカいね。
ホコテン通りにある大聖堂(Catedral Nuestra Señora de la Asunción)、日本語表記でなんという名前なのかよくわかりませんでした。いつ建てられたのかもよくわかりませんでした。でもつい数年前に修復されたっぽいです。ネットで検索すると前の状態の写真も出てきます。もちろんそっちの方がかっこいいです。ここに、コロンブスが持ち込んだとされるいくつかの十字架のうちの1本が展示されています。もともと2mくらいある代物なんだけど、不心得者がやんちゃして70cmくらいになっちゃったとかなんとか。よくわかんない嘘かもしんない。ちなみにこの十字架も、今は柵の奥に展示してあったけど修復前だともっと近くで観れたっぽい。まあ特に興味もわかなかったのだが。
教会の前にはちょっとした広場。ここにアトゥエイ像もありました。
10時くらいにバラコアを出発。すごいです。昨日の一日分を2時間足らずで全てクリアしました。
バラコアを出て、グアンタナモに向かう。途中、ラ・ファローラの道(La Farola)と呼ばれる山道を通る。
ファローラさんが革命後にデザイン(?)して作られた道なので、ラ・ファローラ。この人は現在米国に亡命中。とのメモが残っていて、ちょっと曖昧なのでネット検索してみたけどそれっぽい記述を見つけることは出来なかった。だからこの話もよくわからないまま。翻訳したら「ランタン」になっちゃったし。
・・・バスで走行中にこの話を聞いてる時、突然、ガコン!!って音がなになになに?と窓の外をみると、座席下のサイドドアが開いてしまっていて、スーツケースが一つすっ飛んでしまっていた。幸いガードレールにひっかかって事なきを得たけど、谷底に落ちたり後続車(けっこううしろに別のバスが来ていた)にぶつかっていたらけっこう笑えない事態に陥っていたんだろうなー。もちろん今回はみんなで笑いましたけど。
途中の見晴しのいい角(駐車スペースあり)ではいっぱい行商の方々が待ち構えていた。せっかくなので停まりましょう、とみんなで降りて写真を撮ったり商談をしたり。僕は何も買わなかったけど、チョコレートとかフルーツとか、みなさん色々売りつけられていた。
ヨッシーが美味しいですよ、とみんなに配ってくれたのがマンダリン、バナナ、マンゴー。マンゴーはそのままスーツケースに入れっぱなしになっちゃって食いっぱぐれちゃった(日本に帰って来た時はすっかり変色していた)けど、その場でいただいたオレンジとバナナは確かに美味かった!有機栽培の味なのだろうこれがきっと。
TIPS。キューバの食糧自給率は40%だそうです。思ってたより高くなかった。
山を下って、ここで初めてカリブ海を臨む。カリブ海の海岸はとても長くて、カリフォルニアの海岸のおよそ倍の長さなんだとか。
グアンタナモ(というよりガンタナモ、もっというならワンタナモっていうのが一番近い)に入る。
グアンタナモ基地って、同じ名前で別のところにあるのかとずっと思ってて、あの基地がキューバにあると知ったのは出発の1週間くらい前だった。で、なんで国交がないはずの米国基地があるのかなーって調べもせずに今日に至ったのだが、もともとは1901年から2000年までの100年間のみの借地契約をしていたらしい。その途中の1959年にカストロ政権となり国交断絶状態に陥ったので、もちろんキューバ側は2000年以降の契約更新を拒絶したのだが、米国がそのまま居座っている、というのが現状。だから基地の存在自体が「不法」状態。
感心させられたのが、「合法」時には基地内でキューバ人も職を得ており、USドルでそれなりに潤っていた人もいたらしいのだが、契約期間が過ぎてからはキューバ人は一人も(少なくとも公には)働いていないのだとか。そこで実際に働いていた人からすればかんべんしてくれという決定なのかもしれないが、キューバ政府の方針は徹底している。
更に、借地料が毎年米国から支払われているのだが、それも2001年以降はいっさい受け取っていないのだとか。受け取ったら認めることになっちゃうからね。
見晴しのいいちょっとした展望台があり、そこから遠くの米軍基地を見ることができる。「あー、あれだー」「うわーけっこう大きいねー」とか言ってみんなで写真を撮りまくっていたのだが、地元のガイドさんが来て説明を始めると、それは全然別の建物だったことが判明してしょぼーんとしました。
基地の警備は、内部は米軍、外部はキューバ軍が行っているとのこと。月一回、キューバと米国で基地に関する情報交換会(?もっとふさわしい言い方があるはずだけど)が行われていて、内部の様子もある程度キューバ側も把握できているとのこと。説明に使われた大きなクリアファイルには20枚ほどの写真があったけれど、基地上空からの航空写真(施設も写っている)や、イラクもしくはアフガンからの捕虜の写真もあり、これらは米軍側から提供されたものだとのこと。そしてこれが政府内だけでなく観光客用の資料として活用されていることに軽く感銘を受ける。地元ガイドも露骨には出さなかったけど、ちょっと基地には否定的なニュアンスで話していたし(はっきり否定的なスタンスを取っているライネルの通訳だけどね)、そういう立場の人が沖縄で国公認のガイドをして公式資料を携えて米軍基地を案内する、なんてちょっと想像しにくいよね。
帰りのバスで、ライネルははっきり言ってました。
「キューバ人は、基地を望んでません。」
このあと町に入り、徒歩で市内観光(レストランの準備ができてなかったみたい)。郵便局を発見したのでちょっと中を覗いてみる。こちらの郵便局のカラーは青。ポストも青です。スタッフのおじさんに「ニッポンは赤なんだよ」と教えたら「ストレンジ」って言われた。そっちこそって感じですけど。
14:30、Aguilera通りとCalixto Garcia通りの角にあるHotel Martíで昼食。
食事の時は必ずなんかしらの生バンドがフラリとやってきて演奏を始める(そしてチップを要求する)のが常ですが、ここグアンタナモでも歌と鍵盤とギターの三人組のおっさんバンドが登場。僕を含めツアー参加者はみな、特に関心を払うでもなく、普通に食事を続けていたのですが、終盤、何かの曲が演奏されると、「あ、もうガマンできない!」と隣の席の母が立ち上がり、バンドの前までつかつかと歩み寄り、悠然とダンスを始めてしまいました。
これにはみな「びつくり」ただ茫然としていました。母がダンスをやるなんて、そりゃもちろん誰も知らないわけだし、「いったい何が起こったの」みたいな感じでした。息子としても「すいません」とか言いようがない。数名の方に「オカーサン、すごいわね」と言われました。ホント、すいません。
TIPS。月々200CUP(人民ペソ。もしかしたら、もしかしなくても職種によって金額が変わるはず)を税金として納めると、個人での営業証?がもらえる。宿だったり電機やだったりタクシーだったり。きっと個人ではできない(やってはいけない)職業もあるのだろうけど。この税金は、売上いかんにかかわらず、一定なのだとか。商売上手な人なら安いけど、売上がない月でもそれを払い続けなくてはならないので、まあ考えどころだし、無免許でこっそりなんて人も当然いるだろうなぁとは思ったりもします。
昼食後、改めて市内観光。薬局は思ったより品揃え豊富。種類がどんななのかはもちろん僕にはさっぱりわからないけど、「モノがない」感満載のキューバの中で、つまり金があっても楽器やがない、みたいなキューバにおいて、薬局ってかなりしっかり品揃えされている分野だと思う。しかも基本無料、かかっても極少額とのことなので、本当に医療には力入れてるんだな~と、ゲバラの写真が鎮座しているお店でうならされちゃった。
それからなんだかんだで(よく覚えてないんだよね)、サンチアゴ・デ・クーバへ。今日の宿、Melia Santiago De Cuba に着いたのが17:00。もちろんまだまだ明るい。部屋は11階(12階だったかしら)の1010号室。ここから2連泊なので安心して洗濯。
夕食はホテルでビュッフェ。適応能力が高いので、この頃にはビュッフェと聞いても怖くなくなってきた。そういえばこの時タケちゃんとモンちゃんと同じテーブルで食べたような気がする。母と4人テーブル。多分。
食べ終わったところでまだ20時すぎ。こりゃダメだろーってことで一人外へ。なにかいい呑み屋でも、と散策してみたけど、目抜き通りだとチャラい(キューバの今の若者向けの音楽って、僕のキャパからは大きく逸脱してしまう。そんな音楽が大ボリュームでスピーカーから流れているオープンテラスの)店とかが主流で、ちょっと通りを外れると途端に静かな住宅街。玄関口でお酒をあおっている人はいるけれど、どう考えても普通の民家。困ったなーとホテルの四方をグルグル歩いてまたうるさい界隈に出てきて、もういいか公園で一服して帰るかーっと思ったところで声をかけられる。
「あ、タカリだ」と思ったけど、なんだか一人ぼっちで寂しかったので会話を続けることにする。「ハポネス?チノ?」「ハポネス。」「いつからいるの?」「今日。」「この町気に入った?」「うんとっても(まだ観てないけど)。」「バンド探してるの?(多分僕の髪型を見て出てきた質問)」「う~ん。でも、見つからない」「そっかー」・・・しばしの沈黙のあと、「音楽が好きならあっちの店で多分22時から演奏があるよ」と1ブロック先の灯りを指差して教えてくれた。いいヤツじゃんコイツ。でもこの時まだ21時なのね。えーそらたまらん、と思って「じゃあいいよ、It’s on me でそのへんで呑もう。いい店教えて」と頼むと、二つ返事で連れてってくれたのが前述のチャラ店。
まーしょーがねーので呑みスタート。
彼はEric。大学で英語を勉強している24歳(たぶん)。将来は英語教師になるのが夢なんだって。へーっと思ったんだけど、これがなかなか。そりゃこっちの英語がクソミソなのは百も承知だし、英語ネイティヴとまともに会話が成り立たないのは大前提なんだけど、本当に?っていうくらいすごい英語でした。どう考えても砕けすぎてるし、いくらこっちの発音が悪いにしたって理解してくれなさすぎる。お国変われば学び方もこんなに変わるんだねーっと思い知らされた夜でした。もう会話としてズタボロ。何度も同じところを行ったり来たりしてる。なんかもう、超・楽しかったです。
途中、カストロの話になって、「エリックはフィデルのこと好き?リスペクトしてる?」と聞いたら、「フィデルとラウルはNo.1だ!」って即答してくれたのが、(ちょっと意外でもあり、)とても印象的だった。「今日はママが病院に行ってるんだけどそのお金はかからないんだぜ!オレは大学通ってるけどそのお金はかからないんだぜ!ハポンだとお金払わないと出来ないだろ!」ととても誇らしげ。その顔見てたらなんだかこっちまで嬉しくなってきちゃったもんね。ちなみにこの会話も何度も行ったり来たりしているので解釈を間違えてることはないと自信を持てる。
そこですかさずTシャツ話をふり、この町でカストロTシャツを売っているところはないのか、と尋ねる。するとエリック、友達で色んなTシャツを売っているヤツがいるからそいつならもしかしたら、との返答。でもフツーには存在しないはずなので、にわかに信じがたい態度を示すと、「そいつ」が扱っているTシャツ以外の商品を羅列し始める。全部は理解できなくとも、万国共通でわかる品名もやはりあるもので、ああなるほどそういう人ならもしかしたら、くらいの気持ちになってきた。
するとエリック、食いついたとばかりに一気にそっち方面(つまりイリーガル系)で押してくる。こりゃヤバイとばかりに拒絶する。これも行ったり来たり。⇒オレはとにかくTシャツが欲しいだけなんだ(ってこれ、すげえただのオノボリさん)。⇒わかったわかったトト(あちらではTOTOと名乗りました)はヘルシーだからな。じゃあ明日ママが病院から帰ってきたら特製のパイ(?のようなもの)をご馳走するから夕飯を食べに来い、と。もうどういう展開なのか分からない。⇒でもとにかくそのTシャツってやつが・・・⇒わかったわかったじゃあ明日の晩にまた待ち合わせしてその友達のところに一緒に行こう。それで気に入ったのがあったら買えばいい。でもそのあとはウチに来てパイ(のようなもの)を食べていけばいい。なんならタバコよりもっと気持ちのいいものだって・・・⇒わかったわかったそれはもういい。わかったけどオレはグループで旅行に来てるから昼間はムリだ。晩飯はどうせホテルだからその時間から抜けて来れるよ。⇒何時?⇒う~ん多分18時くらいかな。⇒よしわかったじゃあそうしよう。オレホテルの前まで迎えに行くからさ。⇒マジで?⇒マジだろ?⇒うんわかったよじゃあそうしよう。でも実際の時間は前後するよ。⇒ああいいよもちろんオレ達アミーゴだろ?⇒う~んよくわからんけどそうだな。・・・っていう会話を行ったり来たりしながら繰り広げました。
会話のズタボロ度に加え、ワインですっかり頂点に達している表情から、本当のところの部分はよく見えないままだったけれど、それはそれでいいじゃん、というのが正直な気持ちだった。
じゃあオレ先に帰るから、と席を立つと、ホテルまで送らせてくれ、と一緒に立ち上がるエリック。すぐそこだからいいと断っても、どうしても、と食い下がる。この食い下がり加減がもう、日本人には(という言い方は好きなじゃないけど)ちょっと理解しがたい。またアミーゴ連発してくるし。色々うがった考えをよぎらせてみるけれど、逆に何が出来るっていうの?という話だ。
結局、ワインを交互にラッパ呑みしながら公園を横切り、ホテル入口手前でハグして別れた。
そういえば、ホテルの最上階では夜な夜なショーをやってまーす、っていうインフォをいただいていたので母を誘ってみる。「なんだアタシもう行って来たわよ!」と一蹴されつつ、「まあいいわ付き合ってあげる」ということで一緒に。
夜景も大変贅沢なところでしたがショーはショーで、しっかりショー!な感じで異次元でした。「う~ん、イマイチね」「あのステップは、違う」とか批評というか難癖をつけていた母、結局、「じゃ、荷物見てて」とステージに飛び入りして踊りまくっていました。
この人には一生かなわないな、と思った夜でした。ちゃんちゃん。
「3時半出発の予定でしたけど、もうちょっとゆっくりでもダイジョブですねー」ってヨッシーが言ってくれて、わー助かった、と思ったけどどっちにしろ4時出発です。
フロントでチェックアウト、さて出発かと思ったら部屋の備え付けのコーヒー代の請求。ほらみろやっぱ有料じゃないか。しかも「そうかタダなのか」と欲が張ってティーパックまで持ってきちゃったじゃねえか。見事に6.50CUCでしたー。
母いわく、「おかしいわね、アタシも全部持ってきちゃったけど何も言われなかったわ」
これでハバナにおけるワールド航空サービスの評価が下がったにちがいない。
さて今日は国内線の飛行機で最東端のバラコアへ移動。なんでもコロンブスが発見して「ジパングー!」って騒いだ場所がここだったとか。で結局インドでしたってことで落ち着いて、でももちろんそれも間違えてて、コロンブスが死んだあとに「全然違うんですけど」ってことが分かったらしい。幸せな人だったんだね。
空港に着いたのは4時半。さっさとチェックインして、かと思いきやなかなかゴーサインが出ずにひたすらベンチで待機。
しばらくしてからヨッシーから「飛行機が故障らしい」と連絡が。遅れるのが普通、と聞いてはいたのものの、故障には驚いた。笑うしかない。
しかしさすがに8時を回る頃には笑えない。まったく動き出す気配なし。ヨッシー、「このままだと行先を変更するかも」と。その場合はサンチアゴ・デ・クーバが最有力だけど、その便の予約者のチェックインが完了して空席が我々の人数分あれば、ということらしい。今すぐ変更というか空席状況を確かめるわけにはいかないのかなーよくわからんなー多分こっちが理解できてないんだなー。でももう眠いのでいい。プロに任せるしかないもんね。ヨッシーの一番長い日だけどよろしくね。
タバコを吸いに外まで。当然ながらもうすっかり明るい。雨が降り出しそう。
タクシーの運ちゃんに声をかけられる。いやいやバラコア行きの飛行機を待ってるんだと片言スペイン語で伝えると。「メヒコ?メヒコ?」と聞いてくる。「ちゃうちゃう、ハポン。ハポネス。」すると驚いた顔で「おー!ハポン!ノープロブレーム!」と言って去っていった。意味わからん。
ちなみにこの髪型のせいだと思うけど、こっちではかなりジロジロ見られる。露骨に凝視される。これは国民性もあるんだろうけど、ジロジロをまったく躊躇しない。そんなにかっこいいのかな。
出発が遅れなくっているおかげで空港の売店が開き(8:30)、切手を買うことが出来た。母の分と合わせて15枚、と言おうとしたら間違えて50枚って言っちゃったみたい。店のおばちゃんもびびってた。切手爆買い。正解はキンセです。シンクエンタじゃありません。あわてて言い直してことなきを得ました。ちなみに日本までハガキを送るには0.90CUCらしいです。
空港、めちゃくちゃ蝿が多い。数時間そういう環境に身を置いていると、まったく気にならなくなる。トイレもスペシャル汚いし流れないしね。
10時15分、何もしようがないのでビールを呑む。ハイネケン350ml、1.65CUC。
11時、東へのヒコーキ(てか多分この空港からの国内線)全便キャンセル決定。なんだったの?機体故障じゃないよねそれじゃ。
結局今日は航空会社手配のホテルでハバナ泊。今日乗る予定だった人達全員分なので町のはずれになるかもって。どうせバス移動なんだからどうでもいいけど。明日は同じ時間の同じ行先の便しか取れないんだって。なのでまた3時起き。きゃーっ。
でも一番かわいそうなのはスタッフでしょどう考えても。この間ずっとスーツケース番しながらチェックインカウンターで話し込んだり電話したり。ヨッシーよくやった。ライネルもがんばった。ありがとう。
写真には添乗員のヨッシーと現地ガイドのライネルともう一人写っているけど、この人は「黒子のように」(ヨッシー)あれこれホテルだの飛行機だの手配(僕らがその場に到着する前に予約がちゃんと出来ているか先方都合でキャンセルになっていたりしないか-外国の要人とか来ると結構起きるらしい)をしてくれ、その場のトラブルに対処してくれている。ちょっと複雑でしっかり理解はできなかったけど、海外の旅行会社は、まずは彼(黒子)の所属する韓国籍の会社「クセコ」(?検索しても出てこない)に現地ガイドを発注、それからクセコから国営のキューバトゥール(多分、Cubatur)に話が行って、そこの所属のライネルが派遣された、とか。ちょっと曖昧な情報ですが。じゃあライネルはクセコに入っちゃえばいいんじゃん?って言ったら「いやそれはできないんだよね」との返答。クセコは直接ガイドを出しちゃいけないんだとかなんとか。けっこう複雑なあれこれがあるみたいね。
11時20分、バス出発。ホテルは空港から近いところだった(多分)。昨日のところよりランクは落ちるみたいで、部屋のカギがかからないとかトイレが流れないとか色々楽しい感じみたい。僕の部屋はフツーでちょっとがっかりだったけど、備え付けのポットを見たら半分くらいコーヒーが入りっぱなしだった。
それなりにへばったので取り急ぎシャワーですっきりしたのち、昼食。
それからバスでハバナ観光となる。14時55分出発。旧市街へ。
朝はどんよりしていた空も、午後には日差しが気持ちいいくらい。ちょっと涼しいくらいだが、これはやっぱレアケースみたいね。
市場は残念ながら閉まっていた。日曜日なので半ドンだったのかもしれない。それからかの革命広場でキャッキャッと写真を撮り、旧市街を散策。ヘミングウェイが通いまくったカフェ?でシャーベットみたいなダイキリ?をいただきキャッキャッと写真を撮った。
楽器屋さんは、と探してみたけどなかなか少ないみたい。鳴り物系は比較的入手し易いけど弦楽器はイマイチらしい。一軒たまたま見つけたので(閉店中の)ガラス越しにのぞいたら、トレスとかギター数本飾ってあるけどCDやTシャツの方がスペースを食ってそうだった。確かに基本国営の中にあって、営業免許を取ったにしてもそんな在庫を抱えられるはずもない。
土産はいっぱいあるけれど、民芸品をのぞくと基本ゲバラものが多い。散策の最後に広場でフリーマーケットがあって、こういうのが一番面白いはずなので浮かれかけたんだけど、残念ながら時間なし、とのことでそのまま素通り。LPとか古本もいっぱいあったんだけどなー。
失意のままなんとか要塞のあたりで再びバス。17:15出発、17:45ホテル着。ホテルの名前は聞かず終い。
車中で明日の予定を発表。明日こそバラコア入りなんだけど、今日と同じ(6:40発)かと思ってたら先程連絡が入って、5:00発になってしまいましたってさ。1:45出発・・・だってさ。
メシくってシャワー浴びて、即就寝。
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車中のライネルのお話。
街中の、かわいらしいカラーリングの建物。これは政府が行っているものらしい。だからそこここでペンキ塗りをしている人達には国から給料が出ている。でもその色を選ぶのは実際にそこに住んでいる住人なんだとか。
ライネル自身もハバナ在住で、バスでも通った目抜き通り(名前忘れた)からちょっと入ったところに彼の家もあるらしい。ちなみにあなたの家の色は?と聞いたら「まだ塗ってませーん」だって。
寒くて5時くらいに目が覚めてしまった。なんでかっていうと何もかけなかったからなんだけど。
7時半朝食。ビュッフェ。バイキングは苦手。何を選んでいいのかわからなくなる。でも今回の旅行で10回近くあるはずなので、日本に変える頃には苦手意識もなくなっていることだろう。と思いたい。なんにせよ、キューバの初めての朝食。
写真は、かわゆす添乗員ヨッシーが食べている絵。この頃はまだ参加者が互いに仲良くなっていない時なので、あまり気軽にカメラを向けられない。じゃあヨッシーならいいのかと言われると返す言葉もないんですけど。
いったん部屋に戻る。5006号室(6階)からの眺めはこんな感じ。遠くには海が見える。ここは禁煙部屋だったけれど、ベランダの排水溝のそばに過去の利用客の吸殻が数本、明らかに複数人の別のタイミングのものが積み重ねられていたので、郷に入って一本追加しておいた。こうやって歴史は作られていくんだね。9時にバスで出発。今日はハバナから西に向かって、世界遺産にもなっているらしい、ビニャーレスの谷(Valle de Viñales)というところへ。
現地ガイドはハバナ在住のライネル。80年生まれの35歳?かな?バスの運転手はマリオ。初老。
バスの中から町の風景を眺めているだけで、もうそれだけでテンションが上がってくる。素敵な家々。人々。犬々。云々。だんだん家がなくなってきて緑が増えてくる。もうけっこう走ってるんだろうか。舞い上がっているせいかなんだかよくわかってない。
途中でタバコ農家に寄って、タバコの葉がなっている畑、乾燥させるための倉庫とか実際にそこで行われている作業を見学させてもらう。収穫や干し方とか、最終的に巻いて完成品にするところとか、基本全部手作業でかっこよすぎ。手に職を持つとはまさにこのこと。ここまで見せてもらって「はいサンキュー」ではあまりにあれなので、産地割安のコイーバを購入。20本で20CUC。ちょっと小さめのヤツにしちゃったけれど、今にして思えばケチケチせず特大品にするべきだった。
それからちょっと走ってどこかの町。ラム酒工場。残念ながら稼働していなかったけれど、ライネルの説明でまあなんとかわかったような気になった。でもすぐ忘れた。
それからいよいよビニャーレス。・・・だったかなぁ。谷を観てからラム酒工場だったかなぁ。よくわかんなくなっちゃったけどまあいいや。
この写真の壁画が世界遺産なわけではなくって、もっと上の展望台から見える、むき出しの岩々がどわーっと立ち並ぶところが売りなようです。そっちの写真撮り忘れてましたけど。
この壁画はムラル(Mural)という村・にあるのでムラル壁画とかプレイストリア壁画(意味わからない)とか呼ばれているみたいですけど、「1959年の革命政府樹立後にディエゴ・リベラというメキシコ人によって描かれた、比較的新しいもの」・・・と思ってたら「1921年に描かれた」ってネット上では書いてあった。何を根拠にメモってたのかがよくわかりません自分。さらにいうと、この壁画自体何が目的だったのかよくわかりません。明らかに回りの景観から外れています。まあ、観光用なのでしょう。正直まったくピンと来なかったけどしっかり写真に撮っているってことは、まあ、成功なのでしょう。写真左奥、壁画横のレストランで生バンド演奏を聴きながら昼食。
それから、インディヘナの洞窟(Cueva Del Indio)という洞窟というか鍾乳洞にも行きました。中に入ると水があって、ボートに乗って、外に出ました、という子供みたいな紹介ですみません。
壁画にせよ洞窟にせよ、時間がある方はどうぞ、くらいにしか思いませんでした。
そしてロス・ハスミネス(Los Jasmines)の展望台まで(バスで)登り、世界遺産になっている山々の絶壁の景観を眺めながらぷらぷらしたのち、16時過ぎに出発。
Tips。相場チェック。土産やさんで絵葉書0.60CUC、ゲバラTシャツ17.00CUC。このへんの民宿35.00CUCくらい。
18時30分ホテル到着。19時夕食ビュッフェ。あまり動いていないので空腹感なし。
いったん部屋に戻ってから母とロビーのバーで一杯。母はダイキリ、僕はビール。オトーサンの骨をどこでまこうか出来ればカリブ海がいいわね最悪土の上でもいいんじゃないかとか色々喋って、まあそれはともかくはるばるキューバまで来れましたおめでとう精一杯楽しみましょうと誓い合った。
21時過ぎ解散。母は部屋へ僕は外で一服。通り一本だけ歩いてみる。ああ、こういう時間が欲しかった。別に単独行動でなくてもいいんだけど町をゆっくり歩きたいなぁ。もちろん明日以降たっぷりあると思うけどね。
1時間ほどのんびりして、部屋で整理整頓&シャワー。母がやって来て持参したポットで沸かしたお湯を持ってきてくれる。夕食時に飲み損ねたのを気にかけてくれたのだろう、部屋のコーヒーを飲みなさい、と。これカネかかるからいい、と言うと、いやタダのはずだ、と。まあそれならば、といただく。
22時半過ぎに床に就く。23時半目が覚める。寝る。24時半目が覚める。
3時、モーニングコールで目が覚める。添乗員のヨッシーは声もバツグンにいい。これから2週間この声で目覚めるのかと思うと実に気分がいい。
しかし眠い。
Tips。ライネル情報。普通はまずゲバラTシャツしかありません。カストロTもホセ・マルティTもありません。政治的なイベントがあった時に、ごく稀にカストロTを目にすることもある。その程度。
そんなわけで、現地でフィデルTを買ってみるという野望は早くも打ち砕かれそうです。
1/22。晴れ。寒い。けっこうのんびりスケジュールなのでありがたい、羽田だし。今回の旅行はなんなのかというと、いちおう(じゃなくって実際ホントにそうなんだけど)親父さまの散骨目的。「生前オトーサンが行きたがってたところ」に残された家族みんなで連れていってあげよう、というなかなかお涙ちょちょ切れプロジェクトの第一弾なのである。まだ父が元気な頃、両親二人でメキシコに行ったことがあるんだって。その時、父が「オレはホントはあそこに行きたかったんだー」と指差した、海の向こうに浮かぶ島、それがキューバだったんだって。そして去年10月(だっけ?)の米国との国交正常化のニュース。それにともなう、もしかしてキューバが変わっちゃう!という焦り。そんなわけで栄えある第一弾に選ばれたのがこの国だった、ってことらしい。他の兄弟はみな予定が合わずだったので結局母と僕の二人旅。ツアーですけどね。オカーサンと二人で旅行、だなんて齢四十六にして初体験ですわよ(多分)。大丈夫なのだろうか。
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まあとにかくそんなわけで、のんびり部屋でバズネコタミとたわむれたりしたのち、家を出発。16:50に羽田で母と合流し(全員一か所に集合ではないのでツアーの他の客がどれなのかはまだ不明)、(18:50予定のところちょい押しで)19:15離陸。
機内食はチキンのなんとか。観た映画はメリル・ストリープとリック・スプリングフィールドの『Ricki & The Flash』(2015/米)。知らない映画だったので帰ってきて調べて初めて知ったんですけど、メリル・ストリープの娘役の人は本当の娘さんなんですって。ちなみに邦題は『幸せをつかむ歌』。監督はジョナサン・デミだったので軽く期待したんだけど、まあ正直どーでもいい感じでしたわ。
21:50。時間が経つのがゆっくりすぎる。なかなか苦痛。寝てみようと思うのだけれど、前の方のイビキがグレイトすぎるし、どこかの赤ん坊は元気すぎる。耳栓を忘れてしまってマジ後悔。
01:15。起こされてサンドウィッチとクッキー。眠気覚ましコーラを所望。やっぱり不味い。アンカレッジ上空っぽい。946km/hで飛行中。外気マイナス47℃。
ジョニー・デップの『Black Mass』(2015/米・インドネシア)。けっこうまあまあ面白かったですよ。なんの印象も残ってないけど。
寝る。
あと1時間でトロント到着ですよのタイミングで朝食。スクランブルエッグとホットコーヒー。まあ美味しいのだろうけどもちろん腹は減ってないしひたすら眠いので申し訳ないけどありがたみなし。
10,700km飛んでトロント到着。
東京時間1/23-07:35をトロント(ハバナ)時間1/22-16:35に変更。外はマイナス10℃。
空港内、喫煙所なし。
18:35、ハバナへ向けて出発。3時間で着くはずなんだけど、どうやらハバナが大雨らしくって、空港が閉鎖されちゃった。1時間くらい上空で旋回を続け、ようやく着陸許可が下りたみたい。2,613km飛んでました。
そんなわけでようやく22:30、ハバナ到着!キューバ入り!キャーっ!
ここはホセ・マルティ国際空港(Aeropuerto Internacional José Martí)。エア・カナダなので多分第3ターミナル。
入国時にスタンプは押さなくてもいいよ、というか普通は押さないよ、と添乗員ヨッシー(仮名)から説明。キューバ入国の記録がパスポートに残ると、同パスポートで米国に入国する際にあれこれある、かもしれないんだって。すごいねーおもしろいねー。「ちなみに私は、押しません」とヨッシー。それにしたがって多くの人達も押さなかったみたいよ。
僕はといえば、まあ確実にUSAに行く機会はないだろうし、そもそも国交正常化されるんだからその条件付けもこの数年でどんどん変わってくるはず、何よりもキューバに来た!って記録が残らない方が大NGなので、「スタンプ、ポルファボール!」と頼んで押してもらいました。最悪パスポートを紛失したことに作り直せばいいだけじゃん。みんなBAKAだなーと思いながら無事入国しました。ピンク色のかわいいスタンプでしたよ。空港名で小さく「ホセマルティ♥」って書いてあって胸キュンしました。ハートはウソだけど。
これがキューバで初めてお目にかかったチェ。空港内の警備員室らしき部屋の壁。
そしてスーツケースが出てくるのを待って、空港の外の両替所で2万だったか2万5千円だったか両替して、みんなが終わるのを待ちながら念願のプカプカをして(これが記念すべきキューバの地での初ぷかぷかでした。どーでもいい情報ですけど)、バスに乗り込んだのが23:45。
さっきまで降っていたはずの雨は完全にあがっていてとってもブラボー。えらく蒸し暑いけど。
ホテルに着いたのは0時30分。それから軽食サービス(いらなーい。けど美味しかったのは確か)。
(一人部屋なので)母と別れ、ロビーで一服し(部屋は禁煙なので)、部屋に戻ってからシャワー浴びて、あれこれしてベッドに入ったのは2時半くらいだったか。
とっても長いようで、実はまだ何もしていない、そんな旅行初日でした。
今回の旅行は、いわゆるツアー。けっこうかなりブルジョア旅行で、費用も僕の感覚からいくと「わーお」としか言いようがない。父の墓代を回して、という母の英断がなかったらとてもじゃないけど参加できるような立場ではない。
まあ一生に一度の気分で(間違いなくそうなることでしょうけど)、精一杯楽しんで来ようと思う。
・・・で、ここからは帰って来てから相当加筆しています。予定も変わっちゃったし、行く前の情報では分からなかった町にも行ったので。
まずは日程。「13日間の旅」とは銘打っているけど、現地で遊べる時間は、実質「10日間の旅」。
ワールド航空サービスという、多分けっこう大手なんだろうけど、ツアー旅行をしない僕(てか海外旅行自体が非日常すぎる僕)はやっぱり知りません、という会社のツアーに参加しました。
- 1/22(金) 羽田19:15出発、トロント経由でハバナに同日22:30(現地時間)到着。この日はこのまま就寝。ハバナ(①Habana)泊。
- 1/23(土) バスで西に移動、ビニャーレスの谷(②Valle de Viñales)という世界遺産見学。途中でタバコ農家に寄って、葉巻を作っているところを見させてもらう。そのあとピナール・デル・リオ(③Pinar del Rio)という町でラム酒工場とか見学してから、再びハバナの同じホテルに戻って夕食。ハバナ泊。
- 1/24(日) 早朝、バスで空港に。一気に最東端まで飛んで(2時間ちょい)、最古の町(らしい)バラコアへ。バラコア泊。・・・のはずだったんだけど何故か飛行機が飛ばなくってそのままハバナ泊。ホテルは空港手配のところに変更。臨時で軽くハバナ観光。
- 1/25(月) ここバラコアからはバスの旅。南回りで移動!・・・のはずだったんだけどまだハバナだから飛行機でようやくバラコア(④Baracoa)へ。早送りで予定を済ませ、それからグアンタナモ(⑤Guantanamo)に寄ってからサンチアゴ・デ・クーバ(⑥Santiago de Cuba)泊。ここで当初の予定に追いつく。
- 1/26(火) サンチアゴ・デ・クーバの町観光。ここは革命ゆかりの地なので多分そういった系が中心。同じホテル連泊。
- 1/27(水) エル・コブレ村(⑦El Cobre・『老人と海』の舞台?)、バヤモ(⑧Bayamo・国歌発祥の地)を楽しんで、そしてカマグウェイ(⑨Camaguey)泊。
- 1/28(木) 自転車タクシーでカマグウェイ観光。バスで移動、サンクティ・スピリトゥス(⑩Sancti Spiritus)観光を経て、トリニダー(⑪Trinidad)泊。
- 1/29(金) トリニダー旧市街観光。同ホテル連泊。
- 1/30(土) シエンフエゴス(⑫Cienfuegos)、サンタクララ(⑬Santa Clara・チェががんばったところ)を経て、ハバナに戻ってくる、と。ここから最後までハバナ泊。トリニダーのホテルが当初の予定から変更になって、ランクが落ちたとのことで、急遽ホテルでのショーに旅行会社の計らいで招待。ツアーってすごいなーって思った瞬間。
- 1/31(日) 終日ハバナ観光、新市街、旧市街をバスや徒歩で移動。夜はオプションっていうか実費で町に出てキューバンミュージック鑑賞。同じホテル泊。
- 2/01(月) ヘミングウェイの住んでいた家、ヘミングウェイがよく釣りをしていたコヒマル(ここはハバナの超近所なので地図載せてません)、それからクラシックカーに乗ってハバナドライブ。同じホテル泊。この日も実費でトロピカーナのショー。超金持ち気分を味わって幕を閉じる。
- 2/02(火) 早朝、バスで空港に。トロント経由で羽田へ。
- 2/03(水) 17:00頃(日本時間)羽田着。
こういうのは、絶対下調べを丹念にやっておいた方が楽しいに決まっているんだけど、この日程を知ったのはついこないだ(かつ細かい情報はなし)だったので、あーもういいやどうせ全部段取り決まってるんだし悠然と構えてよう、なんて開き直っちゃったのがやっぱり大失敗。
ルートを辿ると、ちょこちょこと(当然ながら)キューバ革命に関連するところが出てくる。それともちろんそうじゃないところも出てくる(ヘミングウェイとかね)。だから本当は、2面的に見所を押さえていった方が(そういう認識を事前に持ってから臨んだ方が)、圧倒的にその土地土地で理解も深まるし、愛着も湧き易かったりしたんだろうなー。
革命の視点でいくと、
1953年、サンチアゴ・デ・クーバ(4日目)で、フィデルが革命への第一弾攻撃を開始して
1958年、サンタ・クララ(9日目)で、チェが革命の勝利を決定的なものにし、
1959年、ハバナに凱旋(10日目)、革命政府樹立、となる。
だから多分僕らのバスもほぼ同じルートでハバナに入っていたことになるのでしょう。
・・・ちなみに出発前にそらで言えた僕の知識は上記3項目のみ。これ以上のことは現地ないし帰ってきてから詰め込んでまとめました。一応本も持っていってホテルで勉強する、つもりだったけどやっぱり全然無理でした。
その流れの中で、最古の町(3日目)とか、国歌発祥の地(6日目)とか、世界遺産(しょっちゅう)とかが散りばめられている。
だから本当に情報過多で線で繋がってない状態になっちゃってちょっとストレスにもなっちゃった。
帰って来てからちゃんとまとめないと、せっかくのキューバなのにわけわかんないまま「楽しかった」で終わっちゃう。
なのでこの一連のキューバツアー日記は日々ちょこちょこ加筆訂正を入れながら、(飽きなければ)いつの日か完成させるつもり。
これからキューバに行こうっていう人がたまたま見つけて参考にしようと思っても情報として有効になるかどうかは僕にもわからないのでそのへんよろしくどうぞ。