1時45分ホテル出発、2時10分空港到着。

電灯もちゃんと点いていません。チェックインカウンターも空っぽ。ホントにこれで大丈夫なんですか?と思うけど、昨日の振り替え便の乗客でフロアは人でいっぱい。皆、静かに静かにアナウンスを待っている。10分ほど経っていただろうか。ふと気付くとヨッシーとライネル、しっかり我々のスーツケースを運んで、チェックインの列の先頭を陣取っている!エラスギ!おかげで、3時にアナウンスが入ってほとんど待つことなく、我々はチェックインを済ませることが出来たのです。流石です。天才です。
しかも全員まとめてやってくれたので、彼ら(黒子を含めた3人)があれこれしているのをただボケーッと鼻ほじりながら見ているだけで全て完了。どれだけ贅沢な旅なんだ。

母とタケちゃん(通称)。この飛行機で行きました。

母とタケちゃん(通称)。この飛行機で行きました。

ホセ・マルティ空港。ここから飛びました。

この飛行機で来ました。 母と姉上(通称)。

この飛行機で来ました。母と姉上(通称)。

ここに着きました。バラコア。

ここに着きました。バラコア。

空港前。どなたかのお出迎えのハイヤー。

空港前。どなたかのお出迎えのハイヤー。

バラコアの車窓から。 これは外国人向けの民宿。青いマークが赤になるとキューバ人向け。

ラコアの車窓から。
これは外国人向けの民宿。青いマークが赤になるとキューバ人向け。

しっかり木造もあるんですね。

しっかり木造もあるんですね。

マタチン博物館 aka マタチン要塞

マタチン博物館 aka マタチン要塞

壁の落書き。というにはクオリティー高すぎる。

壁の落書き。というにはクオリティー高すぎる。

博物館前は大西洋をバックに集合写真。

博物館前の大西洋をバックに集合写真。

"CONTINUAREMOS DEFENDIENDO LA REVOLUCIÓN" , Baracoa そのまんま翻訳で、「私たちは革命を守り続けます」。 左の絵のUJCはなんだかわかりませんが、顔の上に小さく書いてあるのが「ESTUDIO(教育)」「TRABAJO(雇用)」「FUSIL(銃?ライフル?)」。なかなかお国柄を感じます。 似ても似つかぬですけど、手前からチェ・ゲバラ、カミーロ・シエンフエゴス、一番奥が誰だかわかりません。

“CONTINUAREMOS DEFENDIENDO LA REVOLUCIÓN” 
そのまんま翻訳で、「私たちは革命を守り続けます」。
左の絵のUJCはなんだかわかりませんが、顔の上に小さく書いてあるのが「ESTUDIO(教育)」「TRABAJO(雇用)」「FUSIL(銃?ライフル?)」。なかなかお国柄を感じます。
似ても似つかぬですけど、手前からチェ・ゲバラ、カミーロ・シエンフエゴス、一番奥が誰だかわかりません。

市役所らしいっすよ。

市役所らしいっすよ。

教会前の広場にありました。アトゥエイ像。

教会前の広場にありました。アトゥエイ像。

これが例のコロンブスの。

これが例のコロンブスの。

Viva Fidel y Raul, Viva La Revolución ここまでテキトーな殴り書きだと、逆に愛を感じます。

Viva Fidel y Raul, Viva La Revolución
ここまでテキトーな殴り書きだと、逆に愛を感じます。

設計の勝利。

設計の勝利。

絶景(左側)を前に行商活動。

絶景(左側)を前に行商活動。

サイドドアが開いちゃって大慌てでバスを降りるヨッシー。50m後方に誰かのスーツケースが転がっている。

サイドドアが開いちゃって大慌てでバスを降りるヨッシー。50m後方に誰かのスーツケースが転がっている。

人生初のカリブ海。

人生初のカリブ海。

母と青いポスト。

母と青いポスト。

とうとうダンス解禁の母。

とうとうダンス解禁の母。

グアンタナモの町の薬局。

グアンタナモの町の薬局。

これも薬や。

これも薬や。

なんの建物だったのか忘れた。

なんの建物だったのか忘れた。

ホテル到着。洗濯。

ホテル到着。洗濯。

ビデ付の部屋はこの町だけでした。使いませんでしたけど。

ビデ付の部屋はこの町だけでした。使いませんでしたけど。

タケちゃんモンちゃん

タケちゃんモンちゃん

リンダとマリちゃんと姉上。

リンダとマリちゃんと姉上。

石ブロとヨッシー。

石ブロとヨッシー。

オフクロ(通称)と夫人とキラリンとキャプテン(の手)。

オフクロ(通称)と夫人とキラリンとキャプテン(の手)。

で、夜の街へ出た。

で、夜の街へ出た。

で、帰って来てからまた呑んだ。母はまた踊った。

で、帰って来てからまた呑んだ。母はまた踊った。

ゲートに入る際のセキュリティーチェックで、ライターがひっかかって取り上げられちゃった。
羽田では、スーツケースの中には1つも入れてはいけない、手荷物に1つならいい、と言われ、僕が1つと、母に1つを持ってもらって来たんだけど、今度は手荷物で一つも持ってはいけないという扱いだった。母の分も受け取っていたので計2つ、と思ったらバッグの中には3つ入ってた。なんなの羽田!まあここハバナでも「5つあるはずだ!」とか言われて一緒になって必死に探したけどやっぱ3つだし。けっこう係員の感覚でまちまちなんだね。
で、そもそもの規定としては、ライター1つならいい、という羽田のルールはまったく意味がない。1つ目はタバコ用、2つ目は放火用、なんて使い分けしないしね。たかだかライターで何ができるねんってのが大前提だけどさ。
というわけでライターなしでこれからの行程をどう切り抜ければいいんだろうかとものすごく不安になりながら飛行機に乗りました。買えばいいんだねきっと。

ヒコーキは予定通り5:00発。と表示はされているけど4:50過ぎてもまだ乗れないんだよね。昨日の二の舞かぁ、と不安にさせたところで搭乗タイム。演出が上手い。そしてそのあとは超スムーズに8時にバラコア着!おめでとう!
グスタボ・リソ・デ・バラコア空港。Aeropuerto Gustavo Rizo de Baracoa、です。

飛行機を降りてテクテク50m弱歩いてターミナル(っていうの?空港の建物)。ターミナルの奥行は5mくらい。そこに乗客がひしめき合う。何をしているのかというと、スーツケース待ち。空港スタッフが7~8人で飛行機から降ろして「おい入口空けてくれ!そこに立たないで!」とスペイン語で怒鳴りながらスーツケースを運び入れる。それを「あ、それアタシの!」とか言いながら受け取り、5m奥の出口でスーツケースと控え券の番号を照合してもらって出ていく。素敵です。無駄がない。
ちなみにトイレは流石のレベルっす。もちろん流すなんて無駄なことはしません。合理的です。

空港を出てすぐ、ヨッシーが駆け寄ってきて、「はいこれ。」と100円ライターを一つくれた。いざという時の為にスーツケースに入れておいたものだそうだ。
もうはっきり言って泣きそうになったね俺様は。嬉しすぎてすぐ隊列を離れて吸いに行っちゃったよ。このライターは一生の宝物にします。

===

ここからのバスの運転手はクサ。サンチアゴ・デ・クーバ在住の41歳?だったかな?本当はもっとロングネームらしいけどヨッシーが覚えられないので端折ってクサになったらしい。
空港を出るとすぐ、当初泊まるはずだったホテル(Hotel Porto Santo)。なかなか洒落た建物でしたよ。残念。
大型バスで狭い街中を自由自在に走る。めっちゃ運転上手いわ。そういえば町の人達がよく手を振ってくれるから、ここは親日家の町かと思ってたらそういうわけではなくって、クサがバラコア出身なんだって。だからちょっとした凱旋状態。この近所で生まれ育ったのかなぁ。なんかすごくいい光景だったよ。

(ここからWikiとかを駆使)

バスを降り観光。まずはマタチン要塞(Fuerte Matatín, 1802年)跡地のマタチン(歴史・自然史)博物館(Múseo Matatín)。ちなみにバラコアには3つの要塞があって、ラ・プンタ要塞(Fuerte La Punta, 1803年)はレストラン、エル・カスティージョ要塞(El Castillo, 1803年)はホテルになっている(どっちも行ってないけどね)。
要塞ってのは海賊対策で作られているので、ここはもちろん海のすぐそば。ってことは1492年にコロンブスが上陸ってのもこのへんなんじゃないかしら足跡とか残ってるんじゃないかしら、とかちょっとロマンを感じましたね(うそ)。
コロンブスはアジアとかジパングとかを探しているつもりだったらしくて、まさかアメリカ大陸(の間の島)にぶつかっちゃったとは夢にも思わなかっただろう。落ち着いて考えてみりゃただの侵略者だけど、まあ今となっては立派な観光ネタになっているのも確かだ。
もちろんもともと人は住んでいた(タイノ族)けれど、1511年にディエゴ・ヴェラスケスが初代キューバ総督になり、ここから一応キューバの(記された)歴史がスタートになる。
その、キューバの歴史のスタート地点がここバラコアってことらしい。だから最初の町だし最初の首都。
当然これはただの侵略行為であって、スペインに対してタイノ族の反乱が勃発、その時のタイノ族を率いていたのがアトゥエイ(Hatuey 名字はないのかな多分)。結果はご承知の通りヴェラスケス軍の勝利で、キューバはスペインの領土となり、アトゥエイは1512年に火刑でこの世を去る。
このアトゥエイはバラコアでは英雄とされていて、ちゃんと町にはアトゥエイ像もある。言ってみればキューバ史上最初の反逆者ってわけだ。

メモに「ハチミツと呼ば△×$#(解読不能)」と書かれていてなんのこっちゃ、と思ってたら、マタチン要塞の目の前の湾(って形状だったかなぁ)をハチミツ湾(Bahía de Miel)と呼んでいます、ってことだったみたい。由来は謎のまま。

さて海をしばらく眺めてから町散策。手元のメモには人口3万人って書いてあるけど、ウィキによると8万人を超えていました。なあんだけっこういるじゃん。ちなみに数年前のデータだと思うけど、東京都は1,350万、東京都北区は33万、東京都北区浮間は2.5万人。浮間よりは遥かにデカいね。
ホコテン通りにある大聖堂(Catedral Nuestra Señora de la Asunción)、日本語表記でなんという名前なのかよくわかりませんでした。いつ建てられたのかもよくわかりませんでした。でもつい数年前に修復されたっぽいです。ネットで検索すると前の状態の写真も出てきます。もちろんそっちの方がかっこいいです。ここに、コロンブスが持ち込んだとされるいくつかの十字架のうちの1本が展示されています。もともと2mくらいある代物なんだけど、不心得者がやんちゃして70cmくらいになっちゃったとかなんとか。よくわかんない嘘かもしんない。ちなみにこの十字架も、今は柵の奥に展示してあったけど修復前だともっと近くで観れたっぽい。まあ特に興味もわかなかったのだが。
教会の前にはちょっとした広場。ここにアトゥエイ像もありました。

10時くらいにバラコアを出発。すごいです。昨日の一日分を2時間足らずで全てクリアしました。

バラコアを出て、グアンタナモに向かう。途中、ラ・ファローラの道(La Farola)と呼ばれる山道を通る。
ファローラさんが革命後にデザイン(?)して作られた道なので、ラ・ファローラ。この人は現在米国に亡命中。とのメモが残っていて、ちょっと曖昧なのでネット検索してみたけどそれっぽい記述を見つけることは出来なかった。だからこの話もよくわからないまま。翻訳したら「ランタン」になっちゃったし。
・・・バスで走行中にこの話を聞いてる時、突然、ガコン!!って音がなになになに?と窓の外をみると、座席下のサイドドアが開いてしまっていて、スーツケースが一つすっ飛んでしまっていた。幸いガードレールにひっかかって事なきを得たけど、谷底に落ちたり後続車(けっこううしろに別のバスが来ていた)にぶつかっていたらけっこう笑えない事態に陥っていたんだろうなー。もちろん今回はみんなで笑いましたけど。
途中の見晴しのいい角(駐車スペースあり)ではいっぱい行商の方々が待ち構えていた。せっかくなので停まりましょう、とみんなで降りて写真を撮ったり商談をしたり。僕は何も買わなかったけど、チョコレートとかフルーツとか、みなさん色々売りつけられていた。
ヨッシーが美味しいですよ、とみんなに配ってくれたのがマンダリン、バナナ、マンゴー。マンゴーはそのままスーツケースに入れっぱなしになっちゃって食いっぱぐれちゃった(日本に帰って来た時はすっかり変色していた)けど、その場でいただいたオレンジとバナナは確かに美味かった!有機栽培の味なのだろうこれがきっと。
TIPS。キューバの食糧自給率は40%だそうです。思ってたより高くなかった。

山を下って、ここで初めてカリブ海を臨む。カリブ海の海岸はとても長くて、カリフォルニアの海岸のおよそ倍の長さなんだとか。

グアンタナモ(というよりガンタナモ、もっというならワンタナモっていうのが一番近い)に入る。

グアンタナモ基地って、同じ名前で別のところにあるのかとずっと思ってて、あの基地がキューバにあると知ったのは出発の1週間くらい前だった。で、なんで国交がないはずの米国基地があるのかなーって調べもせずに今日に至ったのだが、もともとは1901年から2000年までの100年間のみの借地契約をしていたらしい。その途中の1959年にカストロ政権となり国交断絶状態に陥ったので、もちろんキューバ側は2000年以降の契約更新を拒絶したのだが、米国がそのまま居座っている、というのが現状。だから基地の存在自体が「不法」状態。
感心させられたのが、「合法」時には基地内でキューバ人も職を得ており、USドルでそれなりに潤っていた人もいたらしいのだが、契約期間が過ぎてからはキューバ人は一人も(少なくとも公には)働いていないのだとか。そこで実際に働いていた人からすればかんべんしてくれという決定なのかもしれないが、キューバ政府の方針は徹底している。
更に、借地料が毎年米国から支払われているのだが、それも2001年以降はいっさい受け取っていないのだとか。受け取ったら認めることになっちゃうからね。
見晴しのいいちょっとした展望台があり、そこから遠くの米軍基地を見ることができる。「あー、あれだー」「うわーけっこう大きいねー」とか言ってみんなで写真を撮りまくっていたのだが、地元のガイドさんが来て説明を始めると、それは全然別の建物だったことが判明してしょぼーんとしました。
基地の警備は、内部は米軍、外部はキューバ軍が行っているとのこと。月一回、キューバと米国で基地に関する情報交換会(?もっとふさわしい言い方があるはずだけど)が行われていて、内部の様子もある程度キューバ側も把握できているとのこと。説明に使われた大きなクリアファイルには20枚ほどの写真があったけれど、基地上空からの航空写真(施設も写っている)や、イラクもしくはアフガンからの捕虜の写真もあり、これらは米軍側から提供されたものだとのこと。そしてこれが政府内だけでなく観光客用の資料として活用されていることに軽く感銘を受ける。地元ガイドも露骨には出さなかったけど、ちょっと基地には否定的なニュアンスで話していたし(はっきり否定的なスタンスを取っているライネルの通訳だけどね)、そういう立場の人が沖縄で国公認のガイドをして公式資料を携えて米軍基地を案内する、なんてちょっと想像しにくいよね。
帰りのバスで、ライネルははっきり言ってました。
「キューバ人は、基地を望んでません。」

このあと町に入り、徒歩で市内観光(レストランの準備ができてなかったみたい)。郵便局を発見したのでちょっと中を覗いてみる。こちらの郵便局のカラーは青。ポストも青です。スタッフのおじさんに「ニッポンは赤なんだよ」と教えたら「ストレンジ」って言われた。そっちこそって感じですけど。

14:30、Aguilera通りとCalixto Garcia通りの角にあるHotel Martíで昼食。
食事の時は必ずなんかしらの生バンドがフラリとやってきて演奏を始める(そしてチップを要求する)のが常ですが、ここグアンタナモでも歌と鍵盤とギターの三人組のおっさんバンドが登場。僕を含めツアー参加者はみな、特に関心を払うでもなく、普通に食事を続けていたのですが、終盤、何かの曲が演奏されると、「あ、もうガマンできない!」と隣の席の母が立ち上がり、バンドの前までつかつかと歩み寄り、悠然とダンスを始めてしまいました。
これにはみな「びつくり」ただ茫然としていました。母がダンスをやるなんて、そりゃもちろん誰も知らないわけだし、「いったい何が起こったの」みたいな感じでした。息子としても「すいません」とか言いようがない。数名の方に「オカーサン、すごいわね」と言われました。ホント、すいません。

TIPS。月々200CUP(人民ペソ。もしかしたら、もしかしなくても職種によって金額が変わるはず)を税金として納めると、個人での営業証?がもらえる。宿だったり電機やだったりタクシーだったり。きっと個人ではできない(やってはいけない)職業もあるのだろうけど。この税金は、売上いかんにかかわらず、一定なのだとか。商売上手な人なら安いけど、売上がない月でもそれを払い続けなくてはならないので、まあ考えどころだし、無免許でこっそりなんて人も当然いるだろうなぁとは思ったりもします。

昼食後、改めて市内観光。薬局は思ったより品揃え豊富。種類がどんななのかはもちろん僕にはさっぱりわからないけど、「モノがない」感満載のキューバの中で、つまり金があっても楽器やがない、みたいなキューバにおいて、薬局ってかなりしっかり品揃えされている分野だと思う。しかも基本無料、かかっても極少額とのことなので、本当に医療には力入れてるんだな~と、ゲバラの写真が鎮座しているお店でうならされちゃった。

それからなんだかんだで(よく覚えてないんだよね)、サンチアゴ・デ・クーバへ。今日の宿、Melia Santiago De Cuba に着いたのが17:00。もちろんまだまだ明るい。部屋は11階(12階だったかしら)の1010号室。ここから2連泊なので安心して洗濯。
夕食はホテルでビュッフェ。適応能力が高いので、この頃にはビュッフェと聞いても怖くなくなってきた。そういえばこの時タケちゃんとモンちゃんと同じテーブルで食べたような気がする。母と4人テーブル。多分。

食べ終わったところでまだ20時すぎ。こりゃダメだろーってことで一人外へ。なにかいい呑み屋でも、と散策してみたけど、目抜き通りだとチャラい(キューバの今の若者向けの音楽って、僕のキャパからは大きく逸脱してしまう。そんな音楽が大ボリュームでスピーカーから流れているオープンテラスの)店とかが主流で、ちょっと通りを外れると途端に静かな住宅街。玄関口でお酒をあおっている人はいるけれど、どう考えても普通の民家。困ったなーとホテルの四方をグルグル歩いてまたうるさい界隈に出てきて、もういいか公園で一服して帰るかーっと思ったところで声をかけられる。
「あ、タカリだ」と思ったけど、なんだか一人ぼっちで寂しかったので会話を続けることにする。「ハポネス?チノ?」「ハポネス。」「いつからいるの?」「今日。」「この町気に入った?」「うんとっても(まだ観てないけど)。」「バンド探してるの?(多分僕の髪型を見て出てきた質問)」「う~ん。でも、見つからない」「そっかー」・・・しばしの沈黙のあと、「音楽が好きならあっちの店で多分22時から演奏があるよ」と1ブロック先の灯りを指差して教えてくれた。いいヤツじゃんコイツ。でもこの時まだ21時なのね。えーそらたまらん、と思って「じゃあいいよ、It’s on me でそのへんで呑もう。いい店教えて」と頼むと、二つ返事で連れてってくれたのが前述のチャラ店。
まーしょーがねーので呑みスタート。
彼はEric。大学で英語を勉強している24歳(たぶん)。将来は英語教師になるのが夢なんだって。へーっと思ったんだけど、これがなかなか。そりゃこっちの英語がクソミソなのは百も承知だし、英語ネイティヴとまともに会話が成り立たないのは大前提なんだけど、本当に?っていうくらいすごい英語でした。どう考えても砕けすぎてるし、いくらこっちの発音が悪いにしたって理解してくれなさすぎる。お国変われば学び方もこんなに変わるんだねーっと思い知らされた夜でした。もう会話としてズタボロ。何度も同じところを行ったり来たりしてる。なんかもう、超・楽しかったです。
途中、カストロの話になって、「エリックはフィデルのこと好き?リスペクトしてる?」と聞いたら、「フィデルとラウルはNo.1だ!」って即答してくれたのが、(ちょっと意外でもあり、)とても印象的だった。「今日はママが病院に行ってるんだけどそのお金はかからないんだぜ!オレは大学通ってるけどそのお金はかからないんだぜ!ハポンだとお金払わないと出来ないだろ!」ととても誇らしげ。その顔見てたらなんだかこっちまで嬉しくなってきちゃったもんね。ちなみにこの会話も何度も行ったり来たりしているので解釈を間違えてることはないと自信を持てる。
そこですかさずTシャツ話をふり、この町でカストロTシャツを売っているところはないのか、と尋ねる。するとエリック、友達で色んなTシャツを売っているヤツがいるからそいつならもしかしたら、との返答。でもフツーには存在しないはずなので、にわかに信じがたい態度を示すと、「そいつ」が扱っているTシャツ以外の商品を羅列し始める。全部は理解できなくとも、万国共通でわかる品名もやはりあるもので、ああなるほどそういう人ならもしかしたら、くらいの気持ちになってきた。
するとエリック、食いついたとばかりに一気にそっち方面(つまりイリーガル系)で押してくる。こりゃヤバイとばかりに拒絶する。これも行ったり来たり。⇒オレはとにかくTシャツが欲しいだけなんだ(ってこれ、すげえただのオノボリさん)。⇒わかったわかったトト(あちらではTOTOと名乗りました)はヘルシーだからな。じゃあ明日ママが病院から帰ってきたら特製のパイ(?のようなもの)をご馳走するから夕飯を食べに来い、と。もうどういう展開なのか分からない。⇒でもとにかくそのTシャツってやつが・・・⇒わかったわかったじゃあ明日の晩にまた待ち合わせしてその友達のところに一緒に行こう。それで気に入ったのがあったら買えばいい。でもそのあとはウチに来てパイ(のようなもの)を食べていけばいい。なんならタバコよりもっと気持ちのいいものだって・・・⇒わかったわかったそれはもういい。わかったけどオレはグループで旅行に来てるから昼間はムリだ。晩飯はどうせホテルだからその時間から抜けて来れるよ。⇒何時?⇒う~ん多分18時くらいかな。⇒よしわかったじゃあそうしよう。オレホテルの前まで迎えに行くからさ。⇒マジで?⇒マジだろ?⇒うんわかったよじゃあそうしよう。でも実際の時間は前後するよ。⇒ああいいよもちろんオレ達アミーゴだろ?⇒う~んよくわからんけどそうだな。・・・っていう会話を行ったり来たりしながら繰り広げました。
会話のズタボロ度に加え、ワインですっかり頂点に達している表情から、本当のところの部分はよく見えないままだったけれど、それはそれでいいじゃん、というのが正直な気持ちだった。
じゃあオレ先に帰るから、と席を立つと、ホテルまで送らせてくれ、と一緒に立ち上がるエリック。すぐそこだからいいと断っても、どうしても、と食い下がる。この食い下がり加減がもう、日本人には(という言い方は好きなじゃないけど)ちょっと理解しがたい。またアミーゴ連発してくるし。色々うがった考えをよぎらせてみるけれど、逆に何が出来るっていうの?という話だ。
結局、ワインを交互にラッパ呑みしながら公園を横切り、ホテル入口手前でハグして別れた。

そういえば、ホテルの最上階では夜な夜なショーをやってまーす、っていうインフォをいただいていたので母を誘ってみる。「なんだアタシもう行って来たわよ!」と一蹴されつつ、「まあいいわ付き合ってあげる」ということで一緒に。
夜景も大変贅沢なところでしたがショーはショーで、しっかりショー!な感じで異次元でした。「う~ん、イマイチね」「あのステップは、違う」とか批評というか難癖をつけていた母、結局、「じゃ、荷物見てて」とステージに飛び入りして踊りまくっていました。
この人には一生かなわないな、と思った夜でした。ちゃんちゃん。

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