天気予報によると、晴れ時々曇り。気温30~19度。
モーニングコール7:30。センキュー。

9:00出発。まずは革命広場。どーんと馬に乗った人の像があります。

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ここでキューバの歴史を一回整理。

  • 1492 コロンブスの上陸&殺戮(ジェノヴァ出身。今でいうならイタリア人。でもこの船旅はスペイン王室がスポンサー)。
  • 1511 スペインから派遣されたディエゴ・ヴェラスケスがキューバの総督に就任。当然現地人は反発、アトゥエイ(Hatuey)に率いられた抵抗運動が勃発するも敗北。これ以降原住民はほぼ絶滅させられることになる。代わりにアフリカから奴隷を連れてくる。

(300年以上経過・・・奴隷制が継続する中、支配者側のスペイン系住民(キューバ生まれキューバ育ち)の中からも、スペイン本国の統治に対する不満が出てくる)

  • 1868 砂糖工場主のカルロス・マヌエル・セスペデスを中心にした反乱勃発。これが第一次独立戦争と呼ばれることとなる。他にムラート(混血)のアントニオ・マセオ、ドミニカ人のマクシモ・ゴメス等が活躍する。カルロス・マヌエル・セスペデスは1874年に戦死。戦争は1878年に終結。戦いには敗れど、1886年の奴隷制廃止を勝ち取る大きな布石になった(はず)。

この頃、ホセ・マルティは何をしていたかというと、1868年に反乱が勃発したのち、詩作や出版関係で熱く独立を語るも、あっさり反逆罪で1869年に逮捕、投獄。1871年スペインに送られる(まあ所払いみたいなものか)。でも監獄にいたわけではなくってちゃんと大学に通って、法律、文学、哲学などの研究に没頭する。そして1874年メキシコ、1876年グアテマラに居を移し、ようやく1878年(戦争終結時)にキューバ帰国。でもすぐ当局との関係がやばくなって、スペイン、米国、ベネズエラへと移動。1881年に改めて米国、ニューヨークに10年以上落ち着き、創作活動や言論を続ける。
だから現政権の世代に大きく影響を与えたホセ・マルティの一番の活躍の場って、キューバではないんですよね。おそらくきっと多分、ニューヨーク時代の言動や作品が主だったものなのではないかと。
でまあ、そんなホセ・マルティがとうとう自ら行動に出ます。

  • 1895 ホセ・マルティ、ドミニカ共和国へ出向き、マクシモ・ゴメスと会う。そして共にキューバ上陸。ここから第二次独立戦争が始まる。
    しかし同年、ホセ・マルティ、そしてアントニオ・マセオ戦死。思想的支柱と、第一次独立戦争の二大英雄の一人を失うこととなる(もう一人はもちろんゴメス)。
  • 1898 金の匂いを感じ取った米国が乱入してきて、キューバ国の独立の為、民主主義国歌樹立の為に大活躍し始める。
    結果、スペインが負け、キューバは「独立」することとなるが、実権はしっかり米国が握り、以来米国傀儡政権が続くこととなる。
  • 1953 真の独立、真の民主主義国家樹立を目指し、フィデル・カストロ率いる反乱軍がサンチアゴ・デ・クーバで狼煙を上げる。
  • 1959 バチスタ米国傀儡政権失脚(亡命)。革命政府樹立。

・・・でまあ、このあとも(このあとこそ)色々あるんでしょうけど、とりあえずここまで。

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アントニオ・マセオ。

アントニオ・マセオ。

山刀。

山刀。

キューバ国旗と独立軍旗とフィデルの看板。

2016-01-26

フアン・アルメイダ・ボスケ。

2016-01-26

モンカダ兵営。

2016-01-26

奥は小学校。

2016-01-26

目の前はグラウンド。

何故か、博物館に入ると一部屋だけ小学校の教室でした。スペースがないのか観光向けなのか。

何故か、博物館に入ると一部屋だけ小学校の教室でした。スペースがないのか観光向けなのか。

この頃から僕は熱烈なカミーロ・ファンになっていきます。業績はほとんど知りません。

この頃から僕は熱烈なカミーロ・ファンになっていきます。業績はほとんど知りません。

フィデルの弁護士時代の名刺。

フィデルの弁護士時代の名刺。

2016-01-26

Cementerio Santa Ifigenia

con Yossie y Compay Segundo

con Yossie y Compay Segundo

レストラン「El Morro」からの眺め。

レストラン「El Morro」からの眺め。

2016-01-26 Me on Paul

ポル男の椅子に座ってみる。椅子が写らないと何が何だかわかりません。

2016-01-26 Macca was here.

これがポル男の椅子。何故逆光で撮ったのでしょう。何が書いてあるのかさっぱりわかりません。

母とポール(の椅子)。

母とポール(の椅子)。

こんな店内。というかテラス。

こんな店内。というかテラス。

流しのバンドは、演奏はともかく、ギターのおじさんがなかなかかっこよかったです。これはおじさんが電話をしているところ。

流しのバンドは、演奏はともかく、ギターのおじさんがなかなかかっこよかったです。これはおじさんが電話をしているところ。

ソプラノ・ギターと言っていました。トレスより低い、けどギターより高い、のかなぁ。

ソプラノ・ギターと言っていました。トレスより低い、けどギターより高い、のかなぁ。

モロ要塞。あの大砲でカリブの海賊にドーン。

モロ要塞。反対側の景色。湾になってます。

サンチアゴ・デ・クーバの車窓から。

町の配給所。野菜。

町の配給所。肉。
虫がすごいのでずっとはたいてます。

クルマ。

拡大して見てください。個人邸にこういう貼紙がしてあることがけっこうあるようです。
これは(けっこうデカい家なので)「どこか2軒とこの1軒交換しましょう」ってことみたい。「広すぎるから狭くしてもう1軒の家賃収入を得よう」ということみたいです。

坂。

ホコテンにあった看板。
1952年当時と2015年現在。
1952年には路面電車も通っててクルマも行き来していて、それがほら、ホコテンになってこんなにすっきり!
でもどう見ても当時の方が活気があるじゃん。

肝心のホコテンの写真を撮り忘れました。これが路面電車のあと。

で、帰ってきて。
きっとオレだけに書いてくれたんだろうと思ったら全員の部屋にあってがっかりしました。

ここでお夕食。

というわけで、どーんと馬に乗った人は、第一次(1868-1878)、第二次(1895-1898)の二回に渡る独立戦争(vsスペイン)の英雄、アントニオ・マセオ(Antonio Maceo)でした。
いちおう革命広場らしいんですけど、主役は独立戦争の方でした。ザックザック刺さってるオブジェは、山刀。当時はこれで戦いました。詳細忘れちゃったけど、なんらかの折りに、調停(休戦)するか戦い継続か、みたいになって、休戦派が水平、戦い継続派が垂直に山刀を立てて投票したんだとか。実際はけっこう斜め(委員長一任みたいな)が多かったみたいで、で、オチを忘れちゃった。まあ戦ったってことでしょうね。
しかし功績というか、ざーっと調べてみたかぎりでは、あれ?マクシモ・ゴメスの方が・・・みたいな印象も受けたんだけど、まあそこは色々あるんでしょうね。

ハバナの革命広場でのチェやカミーロと同じように、ここサンチアゴ・デ・クーバの革命広場にも建物に大きく革命の英雄の顔が描かれています。その名もフアン・アルメイダ・ボスケ(Juan Almeida Bosque)!まったく存じ上げませんでしたが、こちら、フィデル達と同期の方で、2009年に亡くなったとのこと。だからしっかり現政権の中枢にいた人です。
えーこういう人がこういう扱いを受けるんだなーってちょっと意外でした。チェもカミーロも、なんだかんだ「昔の人」だもんね。でも2009年ってついこないだだよ。ソ連崩壊も9.11も全部過ぎてるんだよ。意外ー。意外ー。

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そのあとモンカダ兵舎(兵営とも。Cuartel Moncada)に行きました。ようやくここに来ました。待ちに待った!って感じですけど、サンチアゴ・デ・クーバにあるっていうのもよく分かっていませんでした。まあそんなもんです。
というわけで1953年7月26日、すぐ近くの病院と裁判所を囮襲撃し、兵力の分散を図るも、結局この襲撃(&武器調達)計画は失敗に終わり、フィデルも逃亡・潜伏後の7月31日に逮捕されてしまいます。
まあ経験不足準備不足ってことなのでしょうが、すごいのはこのあと。フィデルを拘束した軍の小隊長が、上からの命令(軍へ連行)に背いてフィデルを裁判所に連れて行っちゃった!だから裁判を受けさせることになっちゃった!フィデルもこのチャンスを無駄にしなかった!自分の弁護を自分でやり(当時の職業は弁護士)、裁判所で延々と演説しちゃった!当然マスコミも傍聴している。もともと人気の高かったフィデル、もっと人気が出ちゃった!もちろん有罪にはなるけれど、バチスタ政権もそう簡単に獄死させるわけにもいかなくなり、数年で恩赦で釈放するに至った。まあこの判断が自らのクビを締めることにことになっちゃうんだけど。
なんにせよ、無謀極まりない、カストロ兄弟を含む130名程度の若造たち(60名以上がこの戦いで亡くなったとのこと)が、結果、歴史を変えちゃったってわけです。今でも7月26日というのはキューバにおいてとても大切な日とされているみたいっすよ。祝日ではないみたいだけど、革命記念日と銘打ってるくらい。まあ革命政府だからなんでしょうけど。
念の為補足しとくと、この時フィデル26歳ですって。

モンカダ兵舎、今は博物館(ここを見学)と小学校になっています。銃撃の跡が生々しい建物の前に広がるグラウンドでは、子供たちがサッカーやってます。いい光景です。博物館の中身もとても充実、写真も豊富です。が、やっぱこれ言葉が分からないとキツイわねー。ライネルがたっぷりたっぷり時間を割いて説明してくれたからよかったけど、個人旅行じゃなかなか難しいなぁ。
11:00、出発。

11:55、サンタ・イフィヘニア墓地(Cementerio Santa Ifigenia)到着。
あのバカルディ社の創設者、ドン・ファクンド・バカルディ・マッソ、の息子、エミリオ・バカルディの墓がありました。非常に疎く、だからすごいのかだからそうでもないのか、よくわかりませんでした。
それからなんとアントニオ・マセオの!お母さんと奥さんの墓がありました。ご本人がどこに埋葬されているのかはよくわかりませんでした。
そして!これは本物。ホセ・マルティの墓があります。もう完璧。超がつくほど特別扱いでした。衛兵がずっと(何時からな時までなのかは聞き忘れました)付いています。たしか30分毎?に交代の儀式があります。僕らも衛兵の花道沿いに並んで写真を撮りました。立派な観光名所です。だからホセ・マルティの墓の回りにはいつも人がいっぱいです。
そして!ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのコンパイ・セグンド先輩の墓もありました。どうしてここに埋葬されているのかというと、音楽家としてのキャリアを始めた地が、サンチアゴ・デ・クーバだったとのことです。96歳でなくなったようです。96本の薔薇のデザインです。
あと、唯一日本人でこの墓地に埋葬されている人がいます。この方は・・・名前のメモをなくしたので調べられませんでした。
12:00出発ってメモに書いてあるけど、圧倒的におかしいっすね。これで全ての時間メモの信憑性がなくなりました。

ともかく、そのあとモロ要塞の近くのレストラン、エル・モロ(El Morro)でお昼ごはん。この時初めて、いわゆる自己紹介タイムというのがありました。みなさんちゃんとメモを取ってらっしゃる。僕はきゃっきゃっと写真を撮ってたので結局この時は誰一人覚えませんでした!ダイジョブダイジョブ。
このレストラン、実はポール・マッカートニーさんがご来店したとのことで、しかも、全キューバにおいて、サンチアゴ・デ・クーバだけに来た、ちょっとだけ立ち寄った的な、スーパーレアなご来店だったとのことで、ポル男が座ったとされる椅子がテラスの一番端に(でもひっそりと)鎮座しておられます。
もちろんみんな(興味のある数名)で交代で写真を撮ってみたりしたのですが、いかんせん椅子なものですから、座ってしまうと途端にただ素敵な景色を見ている図、になってしまいます。かといって椅子の横に立ってみても、背もたれに「ポール。」って書いてあるだけ(見辛いし)の椅子なので、結局どうってことない絵になってしまいます。フロリディータのヘミングウェイのように銅像でもあればラクなのですが、毎日いりびたって呑んだくれていたわけでもなく、なんとなく気紛れで立ち寄っただけのポル男ですから、しょうがないっていえばしょうがないのです。
さてそこで気になるのがご来店時期なのですが、これはもうあの時期しかないわけで、カリブ海のジョージ・マーティンのスタジオにポールがいた時期なわけで、つまり『Tug of War』ないし『Pipes of Peace』のレコーディング・セッションの時期、だから1980年から1981年くらいなわけ。この時にポル男がキューバに立ち寄っていた。しかもお忍びで!もうトリヴィアすぎて鳥肌が立つぜ。よくよく見てみれば木製だけど、パイプス・オブ・ピースの椅子に似てなくもない。もしかして着想を・・・きゃーすごすぎるぜ!はっきりさせたい!1980年なのか?それとも1981年なのか?
ライネルに、お店のスタッフに聞いてみてもらった。
その答えは!!???

「ん~、2000年。」

最近じゃん。ぺっ。

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気を取り直し、モロ要塞見学。モロってのは地形のことみたい。いや地形っていうか石?岩?丘?の形状のことみたい。丸くて平でぽやーんってした感じの土地(石?岩?丘?)の形状のことみたい。で、そういうところに建てましたってことでモロ要塞なんですって。もしかしたら突き出た感じの地形なのかもしれない、と説明の途中で感じたのですがそのまま分かったつもりになってスルーしちゃいました。ちなみにハバナにあるモロ要塞も同じですって。説明しているようでまったく説明になっていないことが書きながらはっきりしてきました。

名前はともかく、中はけっこうすごいです。世界遺産です。カリブ海の眺めはもちろんだし、縦にひたすら長かった!階段階段階段、で迷路みたい。夏休みの自由研究で見取り図を作りたくなるくらい楽しいです。「要塞」ってけっこう軽く見てたのですが、立派な城です。

なんて魅力的な建築物!ってことを知ったのは、実は自由時間になってから。入口自体がかなり上の階で、そのままみんなで最上階というか屋上(とは言わないだろうけど)まで行ってキャーキャー写真を撮り、15分程度フリータイムになったのだが、実は僕と母は食事をしている時からチラチラ外を眺めながらミッション完遂場所を探していた。

そうです。父の散骨です。念の為いっとくと、その為の旅行なのです。

どうせならカリブ海がいい、という母の希望。まあそれならこのあと行くトリニダーでもいいのかな。でもどうせなら革命所縁の地がいい。となるとトリニダーはそういう香りがしないわけで、あと思いつくのはグランマ号が上陸したところとかだけどまあそこには行かないみたいだから、そうなるとやっぱりここ、サンチアゴ・デ・クーバがもっともそれっぽい。しかも今目の前がカリブ海だし!要塞自体は革命とは関係ないけれど、天気もめちゃめちゃいいし、この時この場所このロケーションは実は滅多にないチャンスかもしれないのだ。
レストラン(絶壁の上)のテラスからカリブ海を見て、「ここがいいわ~」とは言うものの、実際の海までは数十メートルはありそうで、投げても風に押しやられて岩に直撃するのが目に見えている。
それは要塞でも同じことで、城壁にガーン!こなごな~って絵が容易に浮かぶ。
だからてっぺんで写真を撮っている時も、四方八方の下を覗き込んで、海との距離が一番近いところを探していた。そして、ようやく見つかった近距離ポイント。当然投げやすさから言っても下の方が海に近いわけだし、もうあそこ以上の場所はない、というところが見つかり、いつ抜けようか、ちょっとヨッシーに頼んで時間もらおうか、と考え始めた時に正にそのタイミング、ドンピシャで自由時間となったのだ。もう天才かと思ったよヨッシーもライネルも。

「解散!」となったその瞬間、母を呼び、「あそこしかない!」と場所を伝え、行こう!と駆け足。

多分200段、いやもっとか、それくらい、ひたすらひたすら階段を下りる。部屋を抜けて、扉を開けてまた階段を下りて、ところどころにいる係員のあんちゃんの怪訝そうな視線をかいくぐり(このへんまではあまり人が来ないっぽい)、ようやく最下層の部屋到着!もう海も10mほど下、目の前に広がっている。
そのあと母もやって来て(体力ある人でよかった)、息を整え、カメラの準備をし、いざスタート。

「それではオトーサン、サヨーナラー。」・・・ぽちゃんっ。

これで完了。全て見事に完了。
ほっとしたのも束の間、もう集合時間が迫っている!これから登りだ!「先に行ってヨッシーに声かけとく!」と駆け上る。そしたら何故か途中でオフクロ(通称。母とは別人)がぜーぜー言いながら階段を下りてくる。
「何してんの?」
「え?出口こっちじゃないのぉ?逆?登りぃ?うわ~間違えたぁ~!」
もうどうでもいいです。ゆっくり二人で上がって来てください。

というわけで無事にヨッシーに怒られることもなく、なんとなく集合時間軽く遅刻程度ですみました。すみません。
まったく革命と関係がないモロ要塞ですが、お土産は革命ものが多いです。チェグッズは相変わらず豊富。フィデル絵葉書もなかなか充実していたので0.75CUCを10枚も買い込みました。フィデル写真集っていう逸品もありましたが、重そうなのでやめました。
14:40頃バス出発し、そのあと町を歩いて散策。配給所とかホコテンとかを観て回りました。

ここ、ホテルのすぐ近くだったんですね。15:50に再びバスに乗り、ホテルに16:00前に着いていました。

さて。

すっかり今日の予定を勘違いしていて、とっくにその時間には夕食が終わり、もしくはホテルの夕食の最中のつもりだったのだが、実はホテルで一服したあと、18:15にみんなでおでかけして近くのレストランでお食事、という流れだった。
昨晩のエリックと、ちゃっかり18:00に待ち合わせという約束をしてしまっていたので、(ラッキーなことに15分ずれていてくれたので)これはお断りせねば、と17:50頃にホテルの外に出て一服していた。
早く来ねえかな~っとプラプラしていると、二人組の屈強な黒人二人組と遭遇した。「おっす」「おっす」と挨拶し、日本人か?とかお決まりのそういう会話。そしたらやっぱりお決まりの「タバコ、葉巻、マリワナ」。いやいいっていいって。吸ったことないのか試すか?いや大丈夫だからいいって。イヤなこと忘れられるぜ。わかったからいいって。旅の疲れも吹っ飛ぶぜ。いやいいって。金もねえんだよ。いやいや安いんだってこれが。たったの40CUCで最高級の逸品だから。そりゃ素晴らしい。だけどいいって。
という会話が延々と続く。進行方向が同じでなんとなく続いてしまった。そして何より、昨晩のエリックとの(気持ちのいいと思わせる)会話の記憶が残っていて、(今にして思うと)ものすごく油断があったのだと思う。終始ヘラヘラしてしまっていて、きっぱり断るという行為に至らなかったのは事実だ。
「時間ないんだよね。モノは今ないんでしょ?」と言ってはい終わり、さあ引き返そうとしたら、「あるあるある!すぐそこだから!」とそばに停めてあるクルマに乗り込もうとする。3人組だったようで、運転席(から降りて売店で飲み物を買っている最中)の男に「早くしろ!」と怒鳴っている。「さあ早く!」と言われ、「あームリムリムリ。そもそも金もないから!これが全財産なんだから!」と愚かにもポケットに突っこんであったお札を取り出し、掲げてしまった。
記憶をたどると、それは20CUCと10CUC。もしかしたら20CUCが2枚。
そこからは本当にあっという間。「充分だよ」と一言。
パッと右手のお札が消えて、彼の手に収まる。ガチャっ。「行け行け行けー」ブルル~!「5分で戻るから!」
居なくなっちゃった。

このやり取りの後半で僕を見つけたエリックがそばまでやって来ていて、「おまえ、何やってんの?」と一言。
「ねえ、あれ、戻ってくると思う?」
「来るわけねーだろバッキャロー!」エリック、大激怒していた。

エリックに言われるまでまったく気付かなかったけど、あれは単なるタクシーで、運転手はまったくの部外者だった。
「そういうものが欲しいならどうしてオレに頼まなかったんだ!キューバには悪いヤツはいっぱいいるんだぞ!」と壁を叩きながら、涙をぬぐっている(ように見える)エリック。
金を取られたショックより(というよりあまり実感がなかった。完全にバカだと思う。まさにポカーンって感じ)、目の前でそういう行為が行われているのを目撃してしまったエリックが猛烈に憤る様を今ここで見ている、この光景こそがショックだった。

なぜそこまで感情を高ぶらせる?
アミーゴがあまりに無防備でそれを守ることができなかったから?
アミーゴが昨日食いついてこなかったくせにちゃっかり別のヤツのイリーガル品に手を出そうとしていたから?
本来なら自分がカモにできるはずだったのにこれによってカモの警戒心が高まってしまったから?
混乱。「あーやられたーバカだオレー」という感情処理で終わりにできない。そもそもそこに達することができない。どうしちゃおうか今ここにある危機、みたいな。ていうかそうじゃない。そもそも今ここにいるのは今日は一緒に行けないぜって話を彼にする為なんだよね。あ、もうこんな時間だ。どうしよう、みたいな。

相変わらず二人でグシャグシャな会話。感情爆発させているので余計グシャグシャ。
「なんでなんだよ!なんでなんだよ!」「ちょっと待って。それはいいから。」「よくない!」「いやそれはそうだけど、ちょっとまって」「だってオレは・・・!」「うるさい!しゃべらせろ!」
というわけで僕は間もなく出かけなくてはならないこと。したがって約束を果たすことができないこと。帰りは見込みで20時半と聞いていること。その上でどうするかは君の判断に委ねること。・・・をなんとか伝える。
「オッケー。20時半に会おうよ。オレまた来るよ。友達に連絡しとく」
わーおマジか。そういうことだったらこっちも覚悟決めるわ。もうこうなったら行くとこまで行け、だ。

そして(やっぱりタクシーは戻ってきてくれなかったので笑)本当にお金がない僕はホテルの両替所でいくばくかのCUCを手にしてからニコニコと(心は混沌)バスに乗り込み、レストランへお食事に。El Palenquitoというお店。
この日も隣の席は母だけど、それぞれ反対側のお隣さん達と話をしていた。大変いいことです。この旅行での親離れ子離れの瞬間だったかも。
僕はオフクロと秋田夫妻からツアーの海外旅行のあれこれを勉強させてもらった。色々あるんですねー。みなさん経験豊富すぎてびびりますわ。食事自体は大変待ち時間が長く、かつボリュームありすぎでちょっとゲンナリ。半分残しました。
流しは男女二人組。ギターと唄(+パーカッション)のみ。感想なし、のレベル。

バスがホテルに到着したのは21時ちょい前くらいだったか。
暗闇に、いた!エリック!
さすがにそのまま合流ってのは(こちらもグループですので)躊躇があり、一番最初に降りてすれ違いざまに「5分」と伝え、とりあえず部屋に戻って軽く荷物整理してから合流!

「連絡はついた。さあ行こう!」とエリック。
覚悟を決めた、とは言っても、調子に乗っていた反省はおおいにあり、ちょっと遠いからタクシーに乗ろうという誘いはきっぱりお断りする。
びっくりするエリックに、1時間だったら歩く、それ以上だったらそこの呑み屋で呑んで帰る!と伝える。
歩き出してしばらくすると、やっぱり大変だよ、と通りでたむろしている知り合いらしきバイカーに声をかけ(こっちは本当にバイク乗りが多い!)、「トット、バイク借りたからこれで行こう」と言い出す。「はぁ?」と切れかけた時に、「でもちょっと待って。メットが1つしかないから探してくる」と。まったくふざけてる、歩くと言っているのに!と思いつつ、キューバでバイク2ケツってのもなかなか出来ない経験だな~とまた油断が始まり、エリックがバイカー達に声をかけまくるのを一応困った顔をしながら眺めて待つ。が、結局ダメだったみたいで、二人歩く。なんだよ、ちっ。

大通りから曲がって数ブロック過ぎる。レストランのあった通り(ホテルからみて反対側)とはなんとなく家の造りが違う、気がする。道自体、穴が開いていたり何かが倒れていたり、障害物が増えている。
昨日の晩の同じ時間帯に一人で散歩していたのはレストラン側を歩いていたので、その違いがけっこうショックだった。決して向こうが高級住宅地ってわけではないはずだけど、こっちはなんというか、香ばしい。
ああ、そういう通りなのか、と。人は多い。子供も多い。犬も多い。けっして危険とかなんとかじゃなくて、何とも言えない、写真を撮りたいくらいの香しさがあるのだけど、少なくともこの時間帯にカメラを向けるのは絶対やめとけ、と脳内センサーが反応する(くらいの判断力はあった)。まあ暗くて写んないよ、という判断もあったんですけど。
なんにせよ、あーもう確実に変な方向に向かってるわー。

30分くらい歩いただろうか。
「ちょっとここで2分待ってて」と通りの角で言われる。いやぁこの2分(実際は多分5分くらい)がけっこう長い。通行人、みんなジロジロ見てくし。犬まで見てくし。
挙動不審のエリックが戻ってくる。そして、ちょっと人気のない一角に僕を呼び、「トト、これどう思う?」と。
「20CUCでいいってさ」と、Tシャツの腹にかくしていたアルミホイルの包みを出してきた・・・。

まったく予想をしてなかったといえば嘘になるけど、僕らのコミュニケーションがズタボロだったのは重々承知していたけど、いやー疲れたわ笑。

「ノーグラシアス。返してきて。」

えーーーーっ!ちょっと待てオイだってこれ上物だぜオレを信用しろ絶対ダイジョブだから
「いらない。ヘルシーギフト、フォルファヴォール。」
だからTシャツのヤツは今日都合悪いっていうからでもトトすごい疲れてるからこれで全部ラクになるから
「一回もこれが欲しいとは言ってない。Tシャツの話は聞いてない。」
いやムリムリだってこれアイツが留守だったからアイツのガールフレンドの家に行ってアイツラの分を分けてもらって
「何言ってるのかよくわからない。いらない。返してきて。」
えーーーーっ

多分こんな話をしていたんだと思う。すっごく時間かけてるし、けっこう二人とも怒り口調になってきて、最後の方は僕もめんどくさくなってきて、はっきり「(商品名)は吸いたくない!返してこい!」と彼が来た方向を大きく指差した。
そしたらキャー。その指差した方向、20m先に男性が立ってたわキャー。ずっとこっちの様子をうかがっていたみたいだわキャー。彼が「アイツ」だったわキャー。

帰り道。
また30分くらい歩くことになったんだけど、その間に二人であれこれ話をして、なんとなく(上記の会話のニュアンスも含めて)分かってきた。
オマエがそういうものを欲しくないと言っていたことは分かっている。今日はTシャツとかのギフト屋(モグリなので当然幅広い品ぞろえ)に行って、そこで軽くパーティーをしたかった。でもソイツの都合が悪い(連絡がつかない)ので、別のヤツのところでパーティーにしようと思ったらソイツはガールフレンドの家に行っていて(それが上記の「アイツ」)、それは無理なので、で、オマエは今日はすごく疲れているからせめてホテルの部屋で(商品名)を吸入すれば全部忘れてラクになれるしと思って、オレは悪いヤツじゃないからそれが絶対オマエの為になることだから・・・。
と延々と(ほぼ30分かけてます)説明を聞く。
本心がどうだったのか、Tシャツのくだりはどこまで本当なのか、疑う要素はいくらでもあるけれど、結果、エリックは僕の乗車拒否を受け入れ共に歩き、恐らく売人から代金後払いで商品だけを受け取るという信用あってこその行為を、返品するという掟破りを犯してしまい、その界隈での彼のメンツをそれなりに潰し、今、収穫なしの状態で僕をホテル(デカいので見える。余裕で帰れる)まで送っている。

ホテルの手前の信号のところで、「疲れただろアミーゴ。ありがとう」と声をかけてくるエリック。どうやらこのまま帰ろうとしているらしい。昨日の店で一杯だけ呑もうよ、と誘うと「ホントか?オールライトか?」とようやく(30分ぶりの)笑顔。
店に着き、エリックに金を渡しビールを所望してもらう。するとビール一つとお釣りが返ってくる。何頼んだの?と聞くと、「いやオレはいいんだ」と肩に手をかけてくる。なんなんだいったい。昨日みたいにタカってこいってんだ。ほら、ワイン買って来て、と再度お金を渡すとまたしても「ホントか?オールライトか?」と。
多分この人、裏社会にもそれなりに通じているようだし(そのこと自体が即何かを意味することにはならないけれど)、純粋潔白なただの大学生ってわけでもないだろう。無理やり分けるならそりゃ悪党、いや小悪党くらいは言ってもいいのかもしれない。ニッポンで何も考えずに暮らして海外旅行もしちゃって、なんていう僕からすると充分可能なジャンル分けだ。
でも多分この人、まだ学生ということもあるだろうけど、プロパーな小悪党になりきれない小悪党なんだなーて思った。

結局僕はビール一杯で終わりにしたんだけど、昨日と同じように彼の友達が別のテーブルにいるにもかかわらず、どうしてもホテルまで送ると言い張る。
じゃあお言葉に甘えて、と一緒に店を出て話し出す。ここで初めてエリックがはっきりと「アイムソーリー」と言ってきた。
「昨日も今日も、あの店でバンド演奏がなかった。ホントゴメンな。」
うわーっそこかーっ。

ホテル前でハグしてさようなら。
「今度来る時は、アイフォンをプレゼントしてくれよ」
「んー。考えとく」

長い長い一日でしたとさ。

現地で知り合ったお友達。

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