THIS BIG @ 風知空知/下北沢

僕が自分でバンドなるものを始めるにあたって、間違いなくこの人の存在は大きかった。
ビートルズやビリー・ジョエルやグランド・ファンクやデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズがいかに素晴らしかろうとも、実際に目の前で僕に分かる言葉でかっこいい姿を見せてくれたのはこの人であって、その存在は圧倒的といっても言い過ぎではなかった。
そしてこの人の弟が、偶然にも僕と同い年で同じ高校に通っていたということが、その後の僕の人生を変えてくれたんじゃないか、今になってみると、そう思いたい。

80年代当時の埼玉県上福岡市は、けっこう若いバンドやろうぜ君たちにとって居心地のいい自治体だったんじゃないかと思う。年に何回か市が主催で500名キャパのホールを使わせてくれ、10バンド以上が腕を競っていた。
確か全て、鶴田さんという、市の職員が仕切ってくれていたのだと思う。今40代50代の上福岡市出身の人間は、もっと鶴田さんに感謝していい。この人が当時の上福岡を盛り上げていた一番の功労者なのだから。多分。
で、そんな上福岡市の音楽イベントは、8月の『サマー・コンサート』、10月の『オリジナル・ミュージック・フェスティバル』、そして3月の『ヤング・ロック・フェスティバル』があった(と思う)。10月の『オリフェス』はオリジナル曲限定でドラムなし、おのずとフォークソング主体になり、おじさん中心になる。それに対して3月の『ヤングロック』はその名の通り若造がロックするイベントだった。『サマコン』とどういう棲み分けをしていたのかは、今となってはよくわからない。

僕が初めて、この人の存在を知ったのが中学卒業間近の時の『ヤングロック』。The WinkSという細身の三つ釦スーツに身を包んだ四人組の一員だった。そのいでたちも、彼らが選ぶカバー曲も、そして彼らのオリジナル曲も、もう全てが15歳になりたての僕には衝撃的だった。
「かっこいー」を完全に飛び越えていた。
そこでギターとヴォーカルを担当していたのが吉田カズマロ!だった。見たことのないデザインのリッケンバッカーを弾いていた。ついでに言うと、僕は未だにカズマロさん以外でこのギターを弾いている人を寡聞にして知らない。本当に美しい、僕からすると世界でたった一本のギターだった。
日本人で僕のヒーローになるなんて、沢田研二しかいないと思っていたのに、まさか上福岡にいるだなんて。しかも二つ年上。当時のカズマロさんは高校生だった。

その数日後、僕も無事に高校生になり、隣の教室の1組の中から「カズマロさんの弟」を探しだし仲良くなった。それがツグオミ、のちの坂高一(オンリーワンと言った方が正確かもしれない)のギタリストになる男だ。
音楽の趣味が合ったのはツグオミだけだったけれども、そんなことはどうでもよくてとにかく自分たちでバンドを組みたくて、カシオペアとかが好きなキーボードとベース、なんでも叩けるらしくてヘビメタでもオッケーなドラム、あとなんとなく吹奏楽部で音楽できそうだからサックス2名を加えてバンドを組んだ。それが多分夏ごろ、なのかなぁ。ちなみにテナーサックスのSくんは、今はプロとしてジャズを演奏しているらしいっすよ。やるぅ。
さて、そんな僕らが初めて一緒に人前で演奏したのは1年生の2月頃?曲は『年下の男の子』と『微笑みがえし』だった。これは予餞会、つまり3年生を送る会だったので、一応それに合わせた曲を選んだ(10バンド近く応募して2バンドしか演奏させてもらえない。つまりオーディションを突破するための考え抜かれた選曲だったのだ)。そしてこの2曲に、当時The WinkSが演奏していた『グリーングリーン』を加えた。そして実はオレタチはホンモノなのだからと、バンド名はSgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band にした。もうこのへんが高校生の浅知恵で悲しくなってくるが、もう時効の話だ。

2年生の文化祭、3年生の文化祭で一緒に演った。Elvis Costello (The Loved Ones)、Nick Lowe (Raging Eyes)、Squeeze (Touching Me Touching You, I’ve Returned)、Dire Straits (Twisting By The Pool)、The Clash (Drug Stabbing Time)、Ramones (Rock’n’Roll Radio)、The Jam (Heat Wave, Beat Surrender)。こう思い出してみるとビートルズはやっていなかった。みんなが知らない曲をやるのがかっこいい、みたいな感覚だったのだろう。そんなバンド名だったくせに。
ツグオミは英語も堪能だったので、歌詞がわからない時は(外盤LPしかもっていない場合はもうほぼアウトである。ネットがある今の時代は本当にありがたい)ツグオミに聞き取ってもらい、それでもわからない場合はテキトーに作ってもらった。コードもわからない時はツグオミに聞けばなんとかしてくれた。
ラモーンズもヴェルヴェット・アンダーグラウンドもフォーク・ロックもツグオミに教わった。
ひたすら天才だった。ジェラシーを覚えるほどだった。しかも女の子の好みまでかぶった。そしてことごとく彼女たちはツグオミになびいていった。ひたすらジェラシーだった。
しかしひたすら仲も良かった。しょっちゅう遊んでいたような気がする。ある晩はツグオミが僕の家に遊びに来て、ギターを弾いて喋ってタバコ吸って、帰るのに何故かツグオミの家まで送って、それでも話がつきないから今度はツグオミが僕を家まで送ってくれ、最終的に3往復か4往復していた。お金も遊びにいくところもなかった時代だからこその笑い話だ。
3年生の時は『オリフェス』にツグオミと二人で出た。もう情けないくらいのオリジナル曲を数曲演った。なんとなく覚えているから余計恥ずかしい。

文化祭バンドとは別に、それぞれ別口でバンドを組んでいたので、卒業後しばらくしてから(僕が引っ越したのも大きい)なんとなく疎遠になっていき、連絡も取らなくなってしまった。

あれから30年が経ってしまった。

長くなりすぎてしまった。
続きはまた明日。

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