仕事、今更ながら新年の挨拶で外勤。不景気不景気と言いながら、結構忙しそうにしている得意先を見て、ヒマなのはウチだけということに気付く。
夜はHヤンと新年会というかトム・アルドリーノ生誕記念前夜祭というか追悼会というか、そんな名目で呑む。Q話、ジョージ話、ジョン話等で花を咲かせ、カタイ話は抜きにと思っていたにも拘らず、やっぱり原発話へと流れる(というか多分こっちが持って行っちゃった。すみません)。
国民投票に関して、最近はかなり悶々としていて、自分が何を考えているのかも良く分からない状態だったので、とりあえずはっきりしていないし自信もないけれど、ツイッターに感じることを書いてみた。140字で無理やりまとめるならば「反対」。すると(当然回りから反応はほとんどないが)やっぱり、自分が何らかの意見を口に(この場合はネットに書き込みを)するだけで、回りの意見は自ずと目に入ってくる。不思議だけどそういうものだ。表に出すだけで内面の意識も高まってアンテナはどんどん伸びてくる。
でもまだまとまらない。その中途半端な感覚のまとまらない話を延々とHヤンにぶつけまくった。あちらも中々困ったかもしれない。すみません。でもやっぱり言えば言うだけ、更に考えて、自分の中では勝手に盛り上がっていた。すみません。
非常に楽しい呑みだったけれど、帰ってきてからやっぱり悶々考えた。
反対、というより躊躇というべきだろうか。不安というか。勿論負けるのが不安だし、それが正しく国会で処理されるのかが不安。どのような選択肢が用意され、どのような解釈が可能なのか。実際にスムーズに行っていつ頃の実施になるのかにもよるのだと思う。日本中の原発が止まって、夏をちゃんと乗り切った時には多分もっと気持ちよく受け入れられると思うので、実は今運動が盛り上がっているのはちょうどいいのかもしれない。デモよりも法的効力があるわけだし、メディアも取り上げざるを得ないのだから、有効な手段であることは充分承知しているつもり。
でも政治にとことん疎い人間は(つまり僕は)そういう正しい民主的手続きを踏む、しかもこの国で、ということにどこかでびびってる。国民投票って何度でもやろうと思えば出来るものなのかな?そんなところも気になるところ。どっちにしたってすんなりはいかないはずだし、停止したところで廃炉にしたところで、危険はまだまだ続く。だから何度でも議論は続くだろう。決して一回こっきりの勝負などと考えているわけではないけれど、一回目はやるならちゃんと勝って欲しい。
とっても正しい道筋だと思う。でも怖いな〜っといったところが本音なのだろう、多分。
そして、躊躇がありつつも、もうこういう運動が起きている以上「ダメでした。」ってなっちゃうのは余計悲しい。だからとっても矛盾しているけど、運動の頓挫もまったく望んでいないのだ。無責任発言の筆頭に挙げたいくらいだけれど、こうなったら必ず実施してほしいという気持ちも強いから困っているのだ。そして、実施するならなにがなんでも絶対に廃炉へ持っていかなくてはいけない。勿論高い投票率で。
だからデモ等のアピール運動に対しては積極的に支持継続中。ここは全然揺らぐことはないと思う。国民投票が実施されようがされなかろうが、勝とうが負けようが、どんな形であれ規模であれ、常にこの問題は解決してないのだという声をあげていく人達のことは心からオッケー。まあそれはいいんだけど。
あちらこちらで、みなさん明確な意見を述べていらっしゃるのを見て、ミンナスゴイナーエライナーと感心するばかり。こんな自信がありません悩んでおりますなんてことを言ってるバヤイじゃないのも分かってないわけじゃないんだけれど、でもそうだからこそ、とりあえず今の躊躇を書いておかなきゃな、とも思って、書きながらやっぱり躊躇している。
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