新橋のヤクルトホールにて怒涛の映画鑑賞5連発。
開場の10時半前に着くと既に階段に行列。流石です。とは言っても広い会場なので余裕で座れた。この辺りかなぁと思って最初は前の方に座ったのだが、肩より低い位置で背もたれがなくなる為、見上げる姿勢で夜まで通しは自殺行為だということを1本目を観終わってからようやく理解したので、そそくさと一番後ろに逃げた。・・・とまあこれくらい余裕のある入りだった。当日券目当てで来て入れなかった人もいたようだけど、上映時間が長いから入ったり抜けたり途中で帰ったり途中から来たりであまり満員という感じもしなかった。なんにせよありがたい話だ。
さて1本目は『免田栄−獄中の生』。49年に逮捕され、50年に死刑確定、83年の逆転無罪判決まで30年以上の冤罪に苦しめられた免田さん本人へのインタビューを中心に構成された93年の作品。再審請求を出すことは、知識の面でも周囲との軋轢の面でも相当難しく、それでもへこたれずに諦めずにふんばり続けた免田さんの話はいちいち堪える。そして、そこまでしなけりゃ命が無くなっているという恐ろしさ。
やっぱり僕は死刑廃止派なんだろうなぁ。例えば、綾瀬のコンクリートの事件だったり、世田谷の一家皆殺し事件(犯人捕まってないけど)だったり、そりゃあ「更生」なんて無理でしょ、釈放しないでよ頼むからって事例は確かにある。彼等に対して、殺意に近い憤りを覚えているのも確か。しかし免田さんのような人(彼が見た中で、他に18名?ほどの判決に疑問の残る死刑囚がいた。無論皆、執行済みだ)が一人でも生まれる可能性があるなら、やはりこの制度には欠陥があると言わざるを得ない。
上映が終わってから、司会者を交えて免田栄本人と森達也の対談。やはり司会の人から、その執念や精神力をさせ続けた力の源はなんだったのか、という質問。聞くまでもないことだろうが聞かざるを得ない。「真実を求める思い、それから・・・殺されたくない、という思いです」。この言葉が聞けただけでも、今日来た甲斐があったというものだ。死ぬまで生きてやる。そう思っていかなきゃいけないよね、確かに。
それからこれも聞きたい。「冤罪は確かに怖いけれども、じゃあ仮に誰の目から見ても有罪が明らかな犯罪者がいたら、その者には死刑を適用するべきなのか?」これには森達也が的確な受け答えをしてくれた。存置論者は「死んで償え」という。廃止論者は「生きて償え」という。そのどちらも間違いである。何故なら決して殺された人は帰ってこないのだから、何を持ってしても償うことは出来ないのだ、と。あぁなるほど。その上で考えていくならば、国があえて殺人を行うことに何の意味があるのか、ということだろう。少なくとも僕等が期待するほどには、抑止効果も働いていないようだし。遺族の復讐感情が大事であるならば、首吊り台のスイッチを押す役目を第三者の役人に委ねるのもどうかと思う。最低でも、遺族には公開するべきだろう。だいたいにいつ執行されるのかも分からないなんて、やっぱり矛盾していると思う。人の生死が拘わるルールが矛盾してるというのも困った話だ。だからすっきりするまでは、とりあえず、生の方を優先してもらいたいのだ。そもそも何を持って「冤罪の可能性はゼロ」というのかがあまりに不安定なのだし。
一つ付け加えておくと、世界各国が死刑廃止に向かっているから・・・という論には大反対。死刑を存続するに値する理由があるのだったら世界でたった一国になったとしても胸を張って存続させればいい。他人の意見を聞く事は大事だが、他人がこうしているから、なんて理由はそれこそ世界に恥ずかしい。廃止論者がこれを理由の一つにあげるのを聞く度に悲しくなってくる。
しまった1本目からこんなダラダラと。続いて昨今の僕の読書傾向に照らし合わせると非常にタイムリーな『にくのひと』(2007)。あんまり細かいこととか熱い主張とかを表に出さず、基本路線として「はたらくおじさん」の世界を追求してくれているのがイイ。無論、部落産業(だった)とも言われる屠殺場が舞台。そこで働く人達へのインタビューを交えながら、牛がどのように解体されて、お肉やさんに並ぶようになるのかとイチイチ細かく教えてくれる。確かに気持ち悪いと言えばその通りなんだけど、とっても面白い。なるほど〜っ良く出来た機械だわ〜っとふと感心している自分がいました。結構新しい作品だからね、ついこないだの話だよね。出来ることならこの工程の必然性とか進化の過程とかも探って欲しかったね。更には肉の部位の解説とかってだんだんテーマがずれていますか?
チェチェン問題を扱ったジャーナリストの暗殺事件を探る『アンナへの手紙』(2008)。これまた興味深々な・・・すみません疲れて寝ちゃった。なので感想もなし。
ナチス政権下のドイツ。ユダヤ人もドイツ人も該当者はみんなひっくるめて苦しめられた『刑法175条』(1995)。まずはこんなことがあったのね!という驚き。こんなどうでもいいことを、わざわざ法律を作ってまで取り締まろうという発想がまったく理解不能でちと困った。そしてルー・リードのおかげでなんとなく想像はしていたけれども、当時のデカダーン!なベルリン。そんなに活気に溢れていただなんて、ちと感激した。
とてもシリアスなテーマでもあるんだけど、インタビューを受ける老紳士の、当時の彼氏達との思い出にふけった時のなんともいえない、い〜い笑顔が、アウシュビッツ絡みのネタで絶望に陥りそうになる観客を救ってくれる。変な感想かもしれないけれども、なんだか後味がいいというかなんというか。
さて初日のトリは、以前何かで解説だか感想だかを読んでとても観たかった『プロミス』(2001)。よくもまあこんな映像が撮れたもんだ。イスラエル人だからこそ可能だったのだろうなぁ。もうこっちはボロボロ泣きっぱなしだったけれども、なんというか、とにかく辛い話である。終わってからトイレで用を足していたら、隣のおじさんが「すごいねぇあんな子供なのに一生懸命考えててさ、日本の子供たちじゃああはいかないよ。いやぁ、たいしたもんだ」と僕の方と下の方を交互に見ながら話しかけてきた。よそ見する余裕がなく、そうですねぇとテキトーに相槌を打っておいたが、あの劣悪な環境に置かれるから、の話であってそれをニッポンの子達にそのまま適用させようとするのも酷な話だ。少なくとも僕等は、彼等が受けているような教育を一切受けていないのだし、真面目に考えることは重要だけれども、その結果何を選択するのかが、より一層重要なことのはずだ。
決して無作為に選んだのでなく、何らかの狙いの元選ばれたであろう子供達は、恐らくある程度の情報操作の元、恐らくおおまかに考えれば狙い通りの発想と行動をしてくれて、恐らくおおまかに考えた通りの展開になったんだとは思う。それにしても教育ってすごいなと思い知らされるのだ。生まれて10年も経てば、無垢な人間なんて存在しないのだ。大人が与える環境次第で、人間はどんな風にも育つのだ。
そういう意味でいくと、これは壮大な実験。言葉は悪いけれども、それでもとても意味のある実験。「ああいう環境」でなく、「こういう環境」をもっともっと彼等に与えてやることが出来れば、いつの日か・・・と希望が持てる、そんな実験。実験結果が得られた以上、そこに向かってしっかり歩んでいかなければならないはずの昨今。ガザが大変なことになっている。あの子たちはそろそろ「大人」になっているはず。今はどうしているのだろう。何を思うのだろう。機会があったら観るべし。素晴らしい作品。
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さて。彼等の人権もキチンと守ってあげたいと使命感にかられてしまう映像はコチラ。