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末長いお付き合いを望みます
第一話 猪狩剛敏 (新宿紅布/The Strikes)
2006.08.02

Tot - Channelっていうサイトは当たり前ながらライヴを撮影する、という所から成り立っているのであって、それにはそもそもこれまた当たり前ながらハコがなくては成り立たないものであって、じゃあ一体どんなハコで撮っているのかというと、もうオチは分かっているかと思うけど、新宿のレッドクロスで撮影したものが非常に多い。

2005年11月に初めて彼の地を訪れ、カウンターの向こうからハイネケンを渡してくれたのがこの男、猪狩剛敏氏であった。そもそも僕は、この人のことはイカーリー・ヘップバーンという名前で認識していて、あのヘンテコバンド(ハッチハッチェルビアオールスターズ)のギタリストが何故こんな所にいるのか?という甚だしいまでの無知が彼への興味の基点になっている。その後しばらくしてから、ストライクスのギタリストだったという興味を増さざるを得ないような事実をハッチハッチェル氏に教えてもらって腰を抜かした次第だ(「お前はホントに何も知らないんだな!何でも知ってるぜみたいな顔しといて!」)。更に言わせてもうならば、腰を抜かしておきながらも、僕はストライクスの存在すらも知識として知っている程度で、その音楽をじっくり聴き込んだ記憶がない。まったくひどい話である。しかし時に、無知は武器にもなり得る(というかそれだけで生きている)。2006年現在のレッドクロスのカウンターの奥にいるその人と、知り合って間もない間柄として何度か会話を交わすことで、(恐らく)等身大の彼の人となりに共鳴する部分を覚えたのだ。

2006年5月28日のディーゼル・アンのライヴでお邪魔した時にハイネケンを受け取るついでにこの企画のアイデアを伝えると、「おおいいね。やろうやろう!」と二つ返事で快諾してくれた。その後、単なる僕の怠慢から日程が定まらず、そろそろやらなきゃ、と「いつにしようか?」と持ちかけたのが8月1日。そして彼の返事は、「じゃ明日にしよう!」。正に即決、思い立ったら即実行の男なのである。その行動規範の分かりやすさは下記の話の節々にも顕著に現れているかと思う。 8月2日水曜日。場所は新宿の某デニーズ(だったか某ジョナサン)。14時に待ち合わせして、別れた時には既に18時半を回っていた。テープを回す前に、「前知識」として背景というか裏話的なものを教えてもらっていたらあっという間に1時間半が過ぎ、それから3時間に渡る超ロング・インタビュー!のつもりだったんだが阿呆がテープを勘違いしてて2時間弱でちゃっかり切れてしまっていて、阿呆がそんなこともすっかり忘れて話に聞き入ってしまっていたというとんでもないオチなのである。しかもこっちはビールで向こうはコーヒーだ。真面目に心から申し訳ない気持ちで一杯なのだ。
そんなわけでイカリさんのマシンガントーク、ほんの一部だけここでご紹介させていただく。これを読んで少しでも彼に興味を持った人は、続きは是非本人に直接聞いていただきたい。但し生半可な気持ちで行かないように。語りだしたら止まらないから!

(ディープな、所謂オフレコ話を一時間弱喋りまくって、ひとまず落ち着いた頃・・・)

・・・なんだか、もう話も大分まとまってきちゃいましたねぇ(笑)。

イカリ うん、あとテキトーにやっといてくれればいいかもね(笑)

ちょちょちょっっっ(笑)。ちゃんとオフィシャルな感じの話もお願いしますよ。

イカリ (笑)じゃあ何から行こうか。

今日はですね、実は僕がまったくと言っていいほど分かっていないストライクス時代の話を中心に聞かせて下さい。まずは月並みだけど結成のいきさつとか。

イカリ それはねぇ、オレとドラムのタカオちゃんってのが小学校が一緒で、それでヴォーカルのヨシオは中学で知り合ったの。それでこれも小学校から一緒だったヨコヤマってのがベース。で、オレがみんなよりいっこ上で、先に中学出て高校に行ったんだけど、馴染めなくってすぐ辞めちゃったのね。それで、アイツ等も中学生だったんだけどあんまり学校行ってなかったんでさ(笑)、よく4人でつるんで遊んでたんだよね。それが遊び仲間から発展してって感じかな。みんなビートルズが好きで、ロックンロールが好きっていう共通項があったしね。それでもライヴハウスとか出るようになった時にはオレももう18歳くらいだったと思うけどね。

イカリさん自身がギターを始めたのはどういうキッカケだったんですか?

イカリ ああ、友達の兄貴がビートルズのコピーバンドをやってた、というよくありがちな話。その兄貴の影響でビートルズにのめり込んでギターにのめり込んでってね。でオレたちみんな新宿だからさ、今ほどじゃないにしてもやっぱりレコード屋とかいっぱいあったんだよね。新宿レコードとか今とは違ってすごくロックンロールも充実してて強い店員もいたんでね。
やっぱビートルズの初期が好きだったんで、本とかでカヴァーのオリジナルを調べて買いに行ったりしてさ。なんだかあの時代にしては、パンクとかハードロックの影響をほとんど受けずにある意味、純粋培養的に来ちゃった感じがするね。

他の3人も同じような感じだったんですか?

イカリ うん、ヤツ等は50年代の音楽とかガールズ・グループとかにも夢中になってたかな。オレは結構ビートルズ一本槍だったけど。ちょっとおこがましいけど、ビートルズの本とか読んでるとなんだかオレたちに被ってるような気になってさ。結局残りの3人もすぐ高校辞めちゃって、もうケンカばっかしてるような、まあ不良だったんだよね。そういう不良たちが集まって音楽を始めてさ。
ビートルズはエルヴィスが出発点だったのかもしれないけどオレたちはビートルズが出発点になったんだよね。で、ホント初期が好きだったから、皮ジャンにリーゼントっていう感じでやってて。

あれ?揃いのジャケットですよね、ストライクスって?

イカリ いやだから、ちょっといい子ちゃんだったストーンズがデビューの時に不良のイメージをつけたのとは逆に、根っからの不良だったビートルズがイメージを変えてっていうのもあって。だからその後スーツに関してはそんな抵抗もなく決まったかな?

じゃあ日常的にも着てたんですね?

イカリ いや着ないよぉ!ネクタイなんかステージ以外ではしたくないしねぇ。

いわゆるモッズ系にも入らなかったんですか?スモール・フェイセズとか、若しくはキンクスとか。

イカリ オレに関して言えばさっぱり。60年代のイギリスだと好きなのはビートルズくらいだね。あとは50年代のアメリカになっちゃう。と言ってもエルヴィスみたいに黒人のハートを持った人か、チャック・ベリーとかコースターズみたいにちょっと白人寄りの人。だからどブルースとかも全然ダメで、逆にロカビリーみたいに凄く白くなっちゃってもダメなんだよね。ヨシオは50年代のアメリカ全般にメチャクチャ詳しかったりするんだけど。

なるほど。そんなメンバーで組んだストライクス、活動自体は最初っから軌道に乗っていたという感じだったんでしょうか?

イカリ 最初はねぇ、まあ地元のフォーバレーでJ-POPの人達に混じって出させてもらってたんだよね。でもその頃はまったく評価もされずに客も増えずにやっててさ。ライヴハウスの人達が「まあお前等まだ若いんだからずっと続けてればきっといいことあるよ」(笑)みたいな感じで。・・・それである時、多分当時まだ高校生だったと思うけど、今ヒックスヴィルをやってる真城めぐみさんが友達の友達とかいうツテで、オレ達をモッズ系のイヴェントに誘ってくれたんだよね。新宿ジャムでさ、コレクターズとかマナブくんとかが出てたクリスマスのイヴェントだったんだけど。客もパンパンに入っちゃってて凄いわけ。でそこでオレ達が演ったらなんか反応も凄いんだよ、ガーっと盛り上がってさ。もうそんなの初めての経験だからこっちも舞い上がっちゃって、すっごい演奏早くなっちゃったりして(笑)。もう終わったあとはションボリしちゃってね。「オレ達ヘタだぁ・・・」って。でもステージを観てくれた人達が「お前等いいよ」って言ってくれて、あっち出てこっち出て、って色々誘ってくれるようになったんだよね。だからそれからは客がいないっていうライヴがなくなっちゃったの、そのたった1回のライヴでね。

へぇ~。それって何年の頃なんですか?

イカリ う~ん、ちょっと定かじゃないけど83年か84年の暮れだったんじゃないかと思う。当時既にACBにも出てたんだけど、そこでもそれ以降は一気に客が増えたんだよ。だから、ホントにラッキーだったんだろうね。
とにかく最初にキッカケを作ってくれたのは真城さん。とは言っても中々モッズのお客さん達に受け入れられない部分もあってね。当時はオリジナル演るバンドってダメだったのね、あの界隈では。カヴァーを演らないってのがね。コッチからすると「みんなが出来てないんじゃん!」って話なんだけど。それで段々オレ達も違う方向に流れて行っちゃって。そんな時に今度はダディー・O・ノブがオレ達のこと気に入ってくれて自分のイヴェントに呼んでくれるようになってさ。ノブちゃんは当時パンク系のイヴェントをよく組んでてさ、その後はずっとガレージ・シーンを引っ張って来た人だよね。

ストライクスは最初っからオリジナル中心だったんですか?

イカリ そうだね。極々初期の頃はオレとヨシオの2人で書いてて、最終的に(東京キャッツラウンジから改名して)ストライクスを名乗るようになってからはヨシオ一本。

自分で作りたい!オレの曲を演りたい!っていう欲求はなかったんでしょうか?

イカリ あのね、当時はやっぱりギターを弾きたいという気持ちの方が強かったし、それとヨシオってすごくいい曲を書く奴なんでね。こっちがわざわざ書く必要もなかったんだよね。

ヴォーカルも?

イカリ いやぁあの頃は好きになれなかった。後にアベくん(ex. デキシード・ザ・エモンズ)なんかとイエロードッグズを組んだ時に初めて歌ってみて「あ、案外いいかも」っていう(笑)。随分遅かったよね。

今ノブさんの話が出ましたけど、ノブさんはその頃はバンドをやったりしていたんですか?

イカリ いや、彼はやってないね。だからアイツはいいんだよね。プレイヤー目線にならないから、かっこいい、かっこ悪いってハッキリしていてブレないんだよ。本当に"プロ"のリスナーだね。サイコーにいいヤツだし。・・・そういう結構重要なポジションにいる人達が気に入ってくれたお陰でその後は案外トントン拍子にお客さんが増えていった気がするな。

その"トントン拍子な盛り上がり"に戸惑いは感じませんでした?

イカリ う~ん、戸惑い、というより早く上手くならなきゃ、という意欲が湧いたかな。だらだらやってる時から急にステージが大きくなっちゃってヤバい、いっぱい練習しないと、って。

なるほど。それでメジャー契約をして・・・。

イカリ うん。85年か86年くらいから2年間。

2年?もっと長いのかと思っていましたよ。

イカリ うん・・・。それがねぇ、ストライクスがデビュー前に結構な事件を起こしちゃってねぇ・・・。
あの当時ってさ、非常にバブリーな感じだったからお金も一杯あったと思うんだよね、レコード会社も。それでレコード会社100%出資で、東映だか東宝だかで映画作ることになってさ。同じレコード会社の浅香唯ちゃん主演でヨシオが恋人役、それで演奏シーンもあってメンバー全員出ます、みたいなね(笑)。あの、『YAWARA!』っていうマンガ。

『YAWARA!』に出たんですか?!(笑)

イカリ いやいやそれでね、やっぱオレ達ロックやって来たわけで役者やってきたわけじゃないんで。で、なんか拘っちゃったんだよね。だからずっと出ないって言い続けてたんだけど、勝手にっていうか強引にそのまま話を進められちゃって。・・・で、その撮影当日さ、結局バックレちゃったんだよねオレ達。

笑!

イカリ 白山だか後楽園だかの女子校借り切ってエキストラ入れて浅香唯ちゃんスタンバって演奏シーン撮ります!って日にね。前の二日間くらいバンドで話し合ってさ。こんなこと(ドタキャン)したらどうなるかってのはオレ達が一番分かってるわけだから。でも最終的に、自分達をメジャーに押し上げてくれたファン達が、ストライクスがこんな映画に出たらきっと悲しむんじゃねえかなってなって。こりゃやめようって。でもそれも前々からオレ達は出ませんよって言ってたんだから。それを向こうも強気で「オメエ等分かってんだろ?」みたいなノリだったんだよね。でそのまま平行線で当日迎えちゃって。まあオレ達も根っから・・・(笑)ひとクセあるようなヤツラだったから、「じゃ行かね!」ってバックレちゃった、というね。
後はどうなっちゃうかって・・・分かるよね(笑)?でもね、電話かかってきて「来いオマエ等!」ってなったわけ。だからヨシオと二人で行ったは行ったんだよ。勿論向こうはすっごい怒ってるわけよ。「どういう事になるのか分かってんのかーっ!訴えてやる!」ってカーっとなってて。でもこっちもカーっとなってるからさ、「ふざけんな、出ねえよ!」みたいな状況で。その後の事後処理が大変だよね。すごい大損害与えて台本書き直して延び延びで。キャスティングも勿論変わるわけだし。

じゃああの出来上がりには全然絡んでないんですね?

イカリ 絡んでない。まあこれはオレ達にとっても苦い思い出なんだけどね。
そういや何年か前に偶然テレビで観たんだよ『YAWARA!』。「あ、これかぁ、オレ達がバックレたのはぁ!」ってね(笑)。その後も浅香唯ちゃんをテレビで観たりするとあの時の思い出が甦って来てさ。そのバックレ当日にさ、とにかく浅香の楽屋にだけは顔を出せってことになって。まあただの教室なんだけど。で入ってったら唯ちゃんがぱっと立ち上がってさ、オレ達はポケット手ぇ突っ込んだまんまで、まあ舐めた感じだったんだよね。それでバックレただの撮影どーなっちゃうのよ状態の時にさ、「はじめまして、浅香唯です。よろしくお願いします!」って言ってくれたんだよねぇ。それはねぇ・・・今でも、はっきり憶えてるねぇ。(遠い目)

(笑)それで、契約はお釈迦ですか?

イカリ まあ、そうなるとキビしいよね。実際それをやらかしたのはアルバムを出す前だしさ、契約自体はそれから2年間ちゃんとあるんだけどね。でも向こうもプロモーションしようがないでしょ?そもそもデビュー前のバンドにしてみれば最高のお膳立てをしてくれてたんだしさ、しかもそれをバンド側からダメにしちゃってるわけで。だから・・・、まあ色々あったけど2年間がんばったわけだよ(笑)。
で、さあオレ達これからどうしようかって時にUKプロジェクトがレーベル持ちました、と。ウィラードのマネージャーをやってた北島くんって男がね、今はUKですごい偉いらしいけど、「ウチでやろうよ」って言ってくれてさ。それで1枚(92年/『Come On In My Kitchen』)出させてもらってツアーもやったりしてね。勿論お客さんも入ってくれるし、しかもヨシオの曲を書くペースが早くてさ、月2回ライヴやって新曲も2曲、みたいなペースなんだよね。だからすごい頑張ってた時期でもあるんだけど、やっぱ先が見えないっていうかね。勿論食ってかなきゃいけないんでオレ達みんなバイトやってたしさ、まあ正直メンバー仲もあまりいい状態じゃなかったってのもあるし。で、ヨシオと話をして、もう解散しようって言ったの。ファンに対してケジメを付けるって意味でもね。でもヨシオは活動休止にしようって言っててさ、「やりたくなったらまたやればいいじゃん」って。
だから未だにオレ達、「解散」という形は取ってないんだよね。でも誰にも何にも言わずに止めちゃってさ。もうホント、何の告知もしないで突然ライヴしなくなっちゃったんだよね。一切、なし。だからホント、ファンの人達にはこの場を借りてお詫び申し上げますって感じ。

最後のライヴのMCで話したりもしなかったんですか?

イカリ うんなかったね。最後のライヴは、これも本当メンバー全員世話になった大貫憲章さんのイヴェント。ロンドン・ナイトのクリスマス・スペシャルだったかな。(川崎)チッタでさ。他のメンバーはどうだったのか分からないけど、オレはすごくいいステージだったと思うよ、その時のは。ステージからお客を見てる時の映像とかね、今でも胸に残ってるよ。ステージにポン!っと上がった時にね、やっぱアイコンタクトもバッチリでさ、ああコイツ等サイコーだなぁっていう気になるわけ。・・・でその時にね、もうこのバンドでやる事は何もないなぁ、とも思ったんだよね。逆にサイテーだったら違ってたんだろうけど、・・・もういいかなってね。それに子供の頃からの友達だからさ、やっぱ色々あったわけよ(笑)。まあ今は何のわだかまりもなくなったけどね。

その後はリハも含めて一切なし?

イカリ うんまったくなし。でも、えーっと8年前か9年前かな?イエロードッグズでジャカランダっていうオールナイトをやってた時期があって。その時(ナニー・)キクチくんとかアベ・ジュリーが「やれやれ」ってあんまりしつこいからさ、ヨシオとかに連絡取って1回だけ、一時間半くらいだったかな、あの4人でステージに立った事はある。曲目もアベ・ジュリーとキクチくんにリクエスト出してもらってその中から選んで数回リハも入ったね。でもね、すっごく久々だったんだけど、その時もこの4人はサイコーだなって思った。もうね、これは他のバンドじゃ味わえないよ。あと四谷の古い友達の結婚式とかでは演った事はあるね。お祝い事は断らないようにしてるんでね。まあそれが最後かな。

じゃあ今、もう1回音合わせようか、なんて話は出ないんですか?

イカリ うん・・・正直、あるね。

正直、・・・ある?!

イカリ うん。ストライクスのベストを出そうって話があって。ミント・サウンド・レコーズで1枚、それ以降のものをまだレーベルは決まってないけど1枚、合計2枚出そうかっていうことをヨシオと話してる最中なんだよね。ミント盤の方はヨシオがミントの小森さんっていう人と一緒にイニシアチヴ取ってやってて、後期の方はミント盤出すんなら後期のも出したいよ、どうせならってことで、今オレがどこから出そうかって動いてるところ。

秋頃に出るっていう噂を聞きましたけど、それのことですかね?

イカリ うん。こっち(後期)のは来年のアタマくらいになるんじゃないかな。今音源集めてるところだし。

じゃあそこに新録ってことになるかも?

イカリ ヨシオはまだストライクスでやり残した事があるって言うんだよね。ビートルズに例えるなら、まだ自分達初期しかやってないじゃんっていうことで。ヨシオの才能を考えるならば、オレもそれは充分ある話だとは思うんだよね。すごくいい曲を書くヤツだしさ。だから出来れば新譜を出したいって言われてさ、まあオレは勿論それは前向きに考えるって答えて。
数年前だったら、オレ抜きでやってくれればいいんじゃない?って感じだったと思うんだけど、今はもうヨシオとも充分話が出来てるんで。ただ、やれる状況に自分があるかって言ったらそうではないってことも伝えてある。例えば店のこととか家庭のこととかね。やっぱ優先順位ってのがあるじゃない?だけどヨシオの曲作りの才能に関しては何も疑う余地はないので、彼にはやっぱりやって欲しいなって思いもあるね。

ヨシオさんは今何やってるんですか?

イカリ タカオと一緒に串焼き屋さんやってる。すっごい頑張ってるんだよね。だから頑張ってる者同士が時間を合わせようとすると中々難しいってのが現状でね。向こうが日曜日休みになってもオレはライヴハウスで働いてるから週末はまったく無理なわけで。更にベースのイナッチョは夜10時くらいまでの仕事なんだって。・・・ってことを考えたら物理的に難しいよね。

そうなると、そのベスト盤に1曲だけっていう可能性ですら低いということですかね?

イカリ まあ、可能性はゼロではないけどね。・・・でも未発表は5曲くらい入れる、予定。解散直前のミックスも出来てないような代物だけど、楽曲のグレイドとしては高いよ。オレ達はあくまでもロックンロールに拘ったバンドだったんで、まぁ日本で言うなら・・・三番目にかっこいいバンドかな?

三番目・・・。

イカリ っていうのはさ、一番目ってのは誰も彼もみんなそう言うだろうから、あえてそこは置いといて、二番目ってのは特にあるわけでもない。だから三番目でいいんじゃないかな?(笑)まあ殊、3コードのね、ミクロ的な意味でのロックンロールというものに関して言うならば、ビートルズ以上と言ってもいいと思うよ。そういう自負はあるよ。やっぱり、今でもかっこいいとオレは思うね。

今でも自分で聴いてます?

イカリ いやまったく聴かない(笑)。だけどそのベスト盤の流れで聴き直してみて再認識した。さっきのミクロ的なロックンロールってことでね、こういうバンドは他にいないんじゃないかな?だからアルバムを出すってことにはすごく意味はあると思うよ。今オレこういう仕事(レッドクロス)してるわけでしょ?そうするとやっぱりお客さんでもミュージシャンでも、結構言ってくれるんだよね、「ストライクス好きでした」とか。でもね、「ありがとう」なんて返しながらもちょっと鬱陶しいと感じる時期もあったんだよね。それが今、一回り二回りしてくるとね、そんな風にかけてくれる言葉が本当にありがたく感じるようになってね。「リアルタイムで聴くことが出来なかった」とか「高かったけどヤフオクで買えました」とか言われると申し訳ない気持ちにもなる。だからそういう人達がまだいるんだったら出すのもいいじゃないかな。あと、うちの店に出てくれる若いバンド達にも聴いて欲しいしね。ヨシオの歌詞って、すごくビートに乗ってるんだよ日本語が。『In The Right Time』っていうC・ベリー・スタイルの曲があるんだけど、それ今度谷川くんにも聴かせるけどさ、それはかなりロックンロール・クラシック。歌詞が素晴らしいよ。手前味噌で申し訳ないんだけど、コレはホントにすごいよ。勿論ベスト盤には入れるしね。それにその後期の方には上手くいったら映像も付けられるかも知れない。まあ値段との折り合いがつくかどうか、だけど。

昨日インターネットで色々検索してみて思ったんだけど、やっぱり未だに熱烈なファンも多いんですよね。だからみんなすごく楽しみにしているでしょうね、これは。でもそんな人気絶頂とも言って良い時の解散の決定、後悔したりしませんでした?

イカリ オレに関して言えば、そのあと動かなきゃいけないこともあったんでね、いちいち後悔っていうのはなかったな。でも、11年くらい前かなぁ、風呂でラジオ聴いてたんだよね。そしたらミスター・チルドレンの大ヒットしたやつ、『Tomorrow Never Knows』だったかなぁ、なんかその辺のビートルチックなのが流れてさ、なんかその時、「ああオレ達こういうのがやりたかったんだろうなぁ。こういう風に曲作ってレコーディングして、いいバンドでメシ食って・・・」ってしみじみ思っちゃって、なんかホロっと来た事があったねぇ。まあ後悔っていうのとは違うと思うけど。
よくさ、再結成すれば?なんて言ってくれる人もいるけどね。でも同世代で頑張ってるピーズとかプライヴェーツなんかを見てるとやっぱり二の足踏んじゃうよね。新しい、今の活動としてやるならまだしもね。実際ハッチ・ハッチェル(・ビア・オールスターズ)とかイエロー・ドッグズとかもやったけど、やっぱり過去のものって難しいよ。聴く側も過去のものを求めてくるだろうしね。だからはっつぁんにしてもピーズにしても、同世代の人達が必死にもがいてずっと頑張ってるのを見ると、すごく応援したくなっちゃうよね。

なるほどね。さて、ストライクスが実質解散状態になったのが92~93年くらい、ってことかな?そうすると2003年にレッドクロスを始める前まで10年ほど開きがありますけど、この間はどんなことをやってたんですか?

イカリ オレ当時、近くに住んでたこともあって、しょっちゅうジャムに遊びに行ってた時期があってさ、27くらいの時かな。で、ちょうどその頃ジャムが2号店を出すっていう話があって、当時の店長に「イカちゃん、やってくんない?」って声かけられたの。歌舞伎町のド真ん中の雑居ビルの2階で100人も入れば満杯になっちゃう所でさ。そこでDJバーみたいなことやったんだよね。1年半くらいだったかなぁ、結構流行ったんだけどね、ジャムの親会社ってのがバカでさぁ、そこを風俗ビルにしようって話が出て、権利金の倍返しとかなんとかで権利丸々売っぱらっちゃったんだよね。しかもすっげえ急な話でさ、オレは30日埋まる分のDJを用意しちゃってるわけじゃん?もう「どーすんの一体?」ってな感じでさ、じゃあジャムの深夜を貸してくれってなってあっちに移行したわけ。
それから多分5~6年ジャムで働いたんじゃないかな?その時にさっき(このインタビュー開始前に)話してたような店長その他上の人間の不祥事があって、流れとしてオレが店を回していくことになったのね。別に店長はいたし、オレは親会社からの出向という形をとっていたんだけど、やっぱバンドの待遇とか従業員の待遇とかかなりひどかったんでさ、色々変えていかなくちゃいけないっていう風に思って、上とかなり衝突したんだよね。それで向こうも「コイツにはまかせておけない」ってんでリンキーディンクって所を呼んで委託経営にしちゃったっていうわけ。
で、そのリンキーディンクのやり方にしても到底オレには納得出来るものではなくって、じゃあもう出来ませんっていうことになってね。その際に他の従業員も大量離脱しなくてはいけないっていう状況にまでなってしまったんだよね。じゃあ今度は、一緒に「ふざけんな親会社!」と言ってた仲間達の受け皿が必要だということになって、それでレッドクロス出店ということになるんだよね。で、その歌舞伎町の店の名前がそもそもレッドクロスだったの。

それはイカリさん命名、ですか?

イカリ ううん。それは当時ジャムでブッキング・マネージャーをやってたガミちゃんってヤツが付けた。紅い布って。
まあ今のレッドクロスも、別に最初っからその名前を付けようとしてたわけじゃないんだよね。ネーミングも色々考えてさ、オレはやっぱりジャムを愛していたし、そういうバンドもいっぱいいたからさ、デキシード・ザ・エモンズとかコレクターズもそうだろうし。で、その名前をね、あそこがノウノウと使ってるのも癪なんで、まあオレが考えた名前じゃないんだけどさ(笑)、どうせ斜め向かいなんだから向こうが「スタジオ・ジャム」だったらこっちは「新宿ジャム」とか「ジャム」にしちゃおうかなと思ったのね、もうオレがジャムだ!くらいに言い切っちゃおうか、みたいな。でもまあ、やっぱりお客さんが混乱するだろうってことにもなってさ。だとしたら、レッドクロスってのはジャムに言われて出した店ではあるけど、まあオレとガミちゃん二人で頑張ってやってた店だし、レッドクロスって紅い布って意味で、共産主義ってものに関してオレは嫌いではないので、というかむしろそっち寄りの人間でもあるので、まあちょうどいいかなって思って。

レッドクロスって本当にそういう意味なんですか?

イカリ いやいや、なんかの映画のワンシーンで、バーカウンターの後ろにばーっと紅い布が掛かってるっていう場面があってそれがすごい印象的だったから、らしいんだけどね。今オレの中での意味ってのはもう「アカ」なんだよね。だからと言って自分は安保世代の人間でもないし、まあどうでもいいかなとも思うんだけど、何か強大なものに対する反感っていうのも強いからさ、当時としてはジャムとかリンキーディンクとかね、まあ今となってはちっちゃい話なんだけど。そっちはそっち、こっちはこっちっていう気持ちになってるしさ。どっちにしろいいモン出来ねえだろ、とも思うし。勿論今ジャムで働いている子達は一生懸命やってるんだろうと思うけど、経営としてはやっぱり認められるものじゃないよね。

僕は元々露骨に左寄りな人間なもので、最初にあの名前を見た時はとてもびっくりしましたよ。まあそういう意味ではないだろうとは思ってましたけど(笑)。

イカリ デキシード・ザ・エモンズが店のオープンの初日(2003年8月1日)にやってくれたんだけど、アベ・ジュリーやはっつぁんが「イカリさん挨拶しなきゃダメだよ!」って言ってステージに登らされたの。その時、何か恍惚と不安ってものが入り混じっててさ、つまり自分のやりたかったことを出来る喜びとそれを実現させて持続させるうえでの不安がね、ジャムに対するアンチテーゼだったり世の中のライヴハウスの中での立ち位置であったりね。それで思わずね、その時言っちゃったのが、ここ(明治通り)は38度線なんだ、あっちとこっちは争ってるんだ、と。で、間違えないで欲しいのは、あっちが南でこっちが北なんだよ!って(笑)。

すっげーっ!(大爆笑)

イカリ (笑)でも北朝鮮がいいなんて思ってないんだよオレは。あんなの勿論全然ダメだしさ。ただ理念としてはあるんだよね。国家単位になると難しいのかもしれないけれど、共産主義って本当にこんな小さい所だったらさ、出来るような、そういう思いがあってね。あのぉ、谷川くんだってあるかもしれないけどさ、何かやりたい、でもそれが何なのか分からない、どうすればいいのか分からないっていうさ、そういう思いっていうかな。もし学生運動の時に生きていたら、それが合ってるのか合ってないのか良く分からないけど、その中に突っ込んでいってね。何かを命懸けでやって来たってことはもし結果的に間違ってたとしても、何らかの意味はあることになるのかもしれないなってさ。
でオレはまず、従業員の待遇面とかね、そういう底辺の所からちゃんとしたものをっていう思いがすごく強かったんだよね、勿論それは今でも続いているけど。

なるほど。しかしそれにしてもスゴイ場所に建てましたよね(笑)。

イカリ いやいや、あんな立地のね、つまりジャムの斜め向かいに子供じみてケンカ売って出したってわけじゃないんだよ。ホントはもっと駅に近い所を探してたんだけど場所がなくって。あそこが空いているのは最初っからわかってたんだけどそれはやりすぎだろう、て思ってたから。それで半年くらい探したんだけど、やっぱ最終的になくってねぇ。

そんな様々な思いで始めたレッドクロスも早や3年経つわけですが、今レッドクロスに出演しているバンド達を見てて、何か感じることってあります?

イカリ あのね、オレが二十歳くらいの時ってジャムとかロフトとかのライヴハウスで30代の人達がステージに立つってそうそうなかったはずなんだよね。逆に25過ぎてデビューしなかったらヤバイぞ、くらいのノリで。でも今って、30過ぎ当ったり前なんだよね。で40過ぎも当ったり前。しかもそういうヤツ等の出してる音ってのがまたサイコーなんだよ。
だから今の若い子達は大変だと思うよ。上にすごい連中がいっぱいいるんだからさぁ。これはオレが同世代だから贔屓目に見てるってわけでは全然なくってね。ウチの店で見ててもやっぱり思うんだよ、いいのか若い連中がこんなことでって。たまたま昨日のピーズのワンマンだったんだよ。今の若い子達って客も少なくてクーラーが効いてるような環境で演ってて40分もするとハアハア言ってるけど、ピーズ、2時間演ってもまったく大丈夫だからね。もう基礎体力が違うよ。抜き所ってのも含めてね。プライヴェーツにしたってそうだよ。40過ぎたオヤジが全然OKなんだから。

ああ、それは思いますね。確かにそういう面はあります。まあ寂しい事ではあるけど、こういう時代になって、ようやく日本にもロックオヤジの土壌が出来たっていうことでもあるんでしょうね。

イカリ そうだね。それでまた面白いことにあのハッチ・ハッチェルなんてのが出てくるんだよね。オレ達と同じように『ロック』の畑でバリバリにやってた人がさ、突如「ロックなんかクソくらえ!ロック定年!」とか言っちゃうのって、初めてなんじゃないかな、この日本において。ああいう音楽自体は決して新しいものではなくて演ってる人たちは昔からいたんだろうけど、オレ達の周りの、このロックというカテゴリーの中から出た!っていうのはすごいなって。

アプローチの変化が極端(笑)。

イカリ うん。マモルさんにしてもギターパンダにしても昔とは全然やり方変わってるしね。色々と枝分かれしている気がするよね。逆にピーズみたいにずっとあの形っていうのもいいしね。みんなそれぞれ産みの苦しみを抱えてやっていると思うんだけど。
でもとにかくね、若いヤツ等がもっと頑張らないとダメだよ。実際いいバンドはいるけどね。ただ、やっぱりもっと底上げをしていかないとね。

そういう、異世代間の凌ぎ合いの場であり、コミュニティーの場でもあり、そしてやっぱりただの音楽好きのただの溜まり場でもあり、そんな色んな顔を持つ空間という役割が、これからのライヴハウスに求められているものなのかもしれません。

イカリ うん。ウチも是非、そうありたいものだね。

ところでイカリさん、時間は?

イカリ あヤっバイよ!谷川くんもう行こうよ!まっずいよぉ・・・。

いっそのこと休んじゃえば?(笑)

イカリ そういうわけにも行かないんだよねぇ!

・・・・・この時点で、彼の遅刻は既に決定していたのだった。
「じゃあまたね!」と颯爽と自転車をこいで行く、猪狩剛敏氏。そんなに急いだら、事故の元ですよ、気をつけて。自他ともに認める、新宿のボス、今日もしっかり健在なのであった。
どうもありがとうございました。たまには休んで下さい。